各タイトルをクリックしてください。 (敬称略) (当時)
マレー半島に敵前上陸の命令 多田 清 陸軍下士官
不安とやったという気持ち 鈴木 俊 航空機製作所
航空エンジンを研究していた 石渡 友勝 海軍航空技術廠
12月8日朝、横須賀軍港に帰港 菊池 金雄 海軍徴用船・次席通信士
チチハルの航空隊で 木村 繁次郎 関東軍航技二等兵 21歳
やはり負けた 佐藤 貞 電話局職員 20歳
旅順にて 小林 靖二 大学生
やはりそうか 大庭 定男 高等商業学校生
やったあ! 児島 廣 高等工業学校2年生
緊張で身震い                    塚田 茂 中学校2年生
強烈なパンチを受けた 森迫 康人 商業学校1年生
満蒙開拓青少年義勇軍に応募 綱島 米作  国民学校高等科
興奮しながら登校 高木三郎 国民学校高等科2年生
父のことば 鎌田 隆 国民学校5年生
ほとんど覚えていなかった           和田喜太郎 国民学校5年生
日米開戦の日 荒武千恵子 国民学校5年生
軍国少年は ただ興奮を 大西 吉雄 国民学校4年生
父の出征中に 福井 厚子 国民学校4年生
日本はものすごいものだ 熊川 賢 国民学校4年生
軍国三年生の日々 首藤 教之 国民学校3年生
高揚した気持ちで登校 味香 興郎 国民学校3年生
ラジオ店の前は人だかり 外丸 繁 国民学校2年生
フクチャンの漫画 上田 博章 国民学校2年生
戦争に邁進する覚悟でいた 斉藤 彰 国民学校2年生
祖父が「万歳、万歳!」 岡本 三夫 国民学校2年生
興奮した調子の放送 指方 英佑 国民学校2年生
英米ゲキメツ! 西羽 潔 国民学校2年生
大和魂の権化のような校長先生 岩本 晢 国民学校1年生
短い靴下 西羽 晃 幼稚園生
母はご飯がのどを通らなかった 宮下 春子 5歳


ラジオをクリックしますと、開戦を伝えるラジオ放送が聞けます。


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1941年(昭和16年)12月8日の思い出をご投稿ください。

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「私の八月十五日」


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               英米ゲキメツ!

                               西羽 潔
                              (当時:国民学校2年生)
 
太平洋戦争が始まったあの日、私は“国民学校”の2年生でした。この年の4月から、小学校は国民学校と名が変わっていたのです。その日は、朝からラジオが開戦のニュースを伝えていました。

当時私が通っていた神戸市の国民学校は超過密校で、教室不足のため、1、2年生は午前、午後の2部授業でした。その日は“昼行き”(午後組)だったので、ゆっくりラジオを聴きながら、いよいよ始まった戦争にひとり心躍らせていました。

昼食後学校へ向かうと、途中で帰ってくる“朝行き”(午前組)の子に出会いました。彼は、「戦争、始まったんやで」と学校で聞いたことを教えてくれました。私はラジオで詳しく聞いていたので、「知っとうで」と得意げに答えました。そして、「英米ゲキメツ!英米ゲキメツ!」と心の中でつぶやきながら、胸を張って学校へ向かいました。

「英米撃滅」という言葉をいつの間に覚えていたのでしょうか? 子供心にも、憎き英米との戦争を期待していたと思います。8歳にして、すでにいっぱしの軍国少年だったのです。

(注)戦争が始まる前は「英米」と言っていましたが、開戦と共に「米英」となりました

「シニア夫婦の手づくり海外旅行記」
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/


 


         マレー半島に敵前上陸の命令

                            多田 清
                             (当時:陸軍下士官)

私の十二月八日、サイゴン郊外、リンデアン村に駐屯、平和進駐のためか、フランス兵や、ベトナム人とも仲良く、村長から、歓迎、料理など、振舞い、受けてました。

突然、サンジャック要塞へ移動命令、そして、中型輸送船に乗船、出港しても、行き先、不明。警報だけは、敵潜水艦、近くにと、情報だけ流れ、ときどき、爆雷投下、航行2日目、輸送指揮官、山本中尉から英米と、戦闘状態に入った、此れからマレイ、シンゴラに、敵前上陸すると、命令、従って、ハワイ攻撃を知ったのは、4、5、日過ぎてマレイの英軍を追撃中でした、下級下士官では、命令に従って、行動するだけでした。






             旅順にて

                           小林 靖二
                                    (当時:大学生)

そのころ私は旅順工科大学にいた。 大部分の日本人はハワイ港の戦艦を全滅させたと騒いでいた。 冷静な中国人は言った。 浮きドックを破壊していませんね。 浮きドックが残っていれば、撃沈された戦艦は修理できます。半年もあれば生き返ってくるでしょう。 浮きドックが破壊されていれば戦艦の修復はかなり困難です。 日本が勝ち戦にみえるのは半年でしょう。

冷静な中国人の見方は当たりました。ミッドウエイの大敗です。日本軍にはレーダーの認識がありませんでした。浮きドックのことは語られていないようなので書きました。


「伝統江戸型彫り復刻作品集」
http://www.asahi-net.or.jp/~qf5y-kbys/






            ラジオ店の前は人だかり

                        外丸 繁
                         (当時:国民学校2年生)

私の、あの12月8日は小学生2年生の時のことです。朝食の時に両親の会話は「とうとう始まったな!」なんとも言いようのない複雑な表情で話してるのを、かいま見ました。

親の家業はラジオ店でした。当時の家庭のラジオと言いますと「並四型」「高周波一段・略して高一型」「スーパーヘトロダイン型」「オールウエーブ型(使用禁止でした)」などで、ほとんどが「並四型」が普及していました。当然の事ながら民間放送なんてありません。JOAK(今のNHK)第一放送と第二放送の二波のみ。ラジオが調子悪いからと言ってお客様が持ち込まれますが、あの12月8日は学校から帰ってくると家(店)の前は人だかり、またラジオ修理に持ち込むお客も列を作り修理を待っている状態。前にも後にも、行列しての来客はこの日だけだったと記憶しています。子供ながらに「リンジジニュース・リクカイグンブ・ハッピョウ」勝利、勝利の入電で誰しも4年後の8月15日のことなんて想像もしてなかったことでしょうう。

でも「戦艦プリンス・オブ・ウエールズ及び戦艦レパルス撃沈せり」は痛快でした。


「まるさんのHomePage」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tomaru/





             フクちゃんの漫画

                        上田博章

                                (当時:国民学校2年生)

東京・千駄ヶ谷“仰徳国民学校”の二年生でした。
職業軍人だった父が、前日の七日から帰って来ません。こういうことはよくあることだったので、わが家は別にどうということもなく、朝のNHKを聞いて開戦を知りました。
母も、「あらあら、始まっちゃった」といった雰囲気で、わが家には何の緊迫感もなかったと思います。
ラジオから、やたら軍艦マーチが流れていましたが、町の様子がどうだったか、学校でどうだったか、満八歳になっていたのにサッパリ記憶がない……私は些かボンヤリした生徒だったのでしょう。
しばらく経ってから、新聞に連載されていた「フクちゃん」の四コマ漫画の中で、不精ヒゲの“アラクマさん”が飛んだり跳ねたりしながら、『ヤッタ! 遂にやった!』と叫んで感泣している場面が妙に印象的でした。

一九七二年(昭和四七年)の秋、ドキュメンタリー番組の取材で、フクちゃんの作者・横山隆一さんを鎌倉のお宅に訪ね、インタビューをしたことがあります。
開戦直後の「フクちゃん」の中で、アラクマさんが感泣したシーンのことを聞いてみましたが、
『ほう、そうですかァ、覚えてないなあ』
という反応でした。
なお、横山さんは従軍マンガ家として南方へ出張したとき、船が撃沈されて海に放り出され、海上を長時間にわたって漂った末、運よく救助されて生き残ったお人です。


「疎開絵日記 学童疎開ドサ回り」
http://homepage3.nifty.com/wedd/





               やはりそうか

                       大庭定男

                               (当時:高等商業学校生)

 1941年12月8日朝、小樽は大雪であった。早朝の大本営発表のラジオ放送は『やはりそうか』と思った。数日前よりメデイアは日米交渉がデッドロックに乗り上げていること、重大なる事態へ進む可能性を伝えていたし、多くの人が『戦争は避けられないのではないか、困ったことだが仕方ない』と思っていた。私自身にとっては既に決まっていた半年の繰上げ卒業で、来年10月に入営が確定したと思った。

 登校すると、2学期の英語のdictationの試験があった。米人のM先生が読み上げるが興奮されているのかよく聞こえない。生徒からは『先生、聞き取れません。もう一回お願いします』の声が何回も上がる。先生はますます興奮されたが何とか終えることが出来た。この先生は在日30年に近く、日本人の奥さんとの間に津田英学塾を卒業された二人の娘、金沢四高在学中の息子さんがあり、日ごろから日本精神を賛美されていた。生徒たちが『戦争が始まったらどうしますか』と意地悪い質問をすると、『送還船から飛び込みます』と言われてからダイビングの真似をされた。その戦争が現実となったのである。

 11時過ぎ、宣戦の大詔の放送あり、従来は『英米』であったものが『米英』と順序が変わり、主敵は米国であることを印象づけられた。先生も生徒も興奮していたがそれでも静かで、それまで『彼らにはヤンキー魂あり、侮ってはいけない』、『大東亜共栄圏維持のためには1500万トンの船腹が要るが、現在600万トンに過ぎない』と言っておられた先生方の顔は暗かった。続いて、東條首相の『大詔を拝して』という、例の抑揚の多い放送を廊下で聞いているとき、市の特高の車が来てM先生が連行されていった。

 そして、それから5年後、私はジャワ島タンジョンプリオク港の作業隊の雨漏りのする宿舎の暗い電気の下で次のことを日記に書いた。

 1946年12月8日(日)

 大東亜戦争勃発5周年記念日、講和会議までは正確に言えば戦争状態は存続しているはずである。昭和16年のこの日の朝、夜来の大雪は小樽全市を埋めていた。涙のうちに大詔を拝したのであった。そのとき私は20歳であった。日本の逃れえぬ運命の坩堝の中にわれらは堂々の進撃を開始したのであった。そこには勝敗は眼中になかったが何らかの手段で必ず勝ちうると思った。

 昭和17年のこの日は三島の中部10部隊で迎えた。だぶだぶの軍服に第一義の道に生きうる喜びで一杯であった。幹部候補生試験にかならず合格せんものと勉強の毎日が続いた。しかしその頃には何かしら敵アメリカの巨大な力が意識され始めていた

 昭和18年のこの日、われわれ経理部見習士官は新戦場への抱負に胸を膨らませて季節風荒れ狂う南シナ海海上を航行していた。有馬山丸の甲板に集まり、しぶきにぬれて祖国を拝した。マキン、タラワでは激戦が展開されていた。

 昭和19年のこの日はバンドンで迎えた。レイテ作戦が思わしくなく、暗雲が垂れ込めていた。

 昭和20年のこの日、同じバンドンの憲兵隊跡で敗戦の日々を英印進駐軍に対する終戦処理で忙しい明け暮れをおくっていた。この日、英軍は南部地区を爆撃した。

 そして昭和21年のこの日はタンジョンプリオクで迎えたのである。毎日毎日の埠頭作業、われらを武装解除した英軍は先月までに全部撤退してしまった、そして我々は来年3月までここで作業せしめられることになったのである。

 思えば変転極まりない5ケ年であった。20歳より25歳まで人生の最も花盛りともいうべきこの時期を大東亜戦争の渦中にあちらに飛び、こちらに飛び過ごしてしまったのである。感慨うたた無量というべくにはあまりにも激しい5年間であった。終戦以来16ケ月、この間に我々は戦争の実相に付き種々聞かされた。そして当然勝ち目のない戦争を行ったことになっている。しかし之は何とでもいえることである。要するに時の運命であったのである。ひとつの大悲喜劇であったのである。(大庭定男著『ジャワ敗戦抑留日誌 1946−47』 龍渓書舎 1996)


「修養日誌」
http://www.infotera.ne.jp/~mydna/sonota.html





                  短い靴下

                            西羽 晃  
                           (当時:幼稚園生)

 昭和16年12月8日は晴れた寒い朝だったと記憶している。朝から大人たちが興奮していた。私は幼稚園に出かけた。途中で一緒になった友達は半ズボンに短い靴下を履いていた。私は長い靴下だったと思う。「寒くないの」と私が訊ねると、彼は「お父さんが兵隊になって、満州に行っている。お父さんのことを思えば、少しぐらいの寒さは我慢しなければ」という意味のことを言っていた。私の父は兵隊に行っていないのを、恥ずかしく思った。

 ある日、私は母に「お父さんはなぜ兵隊に行かないの」と訊ねたら、普段の母らしくなく、きつい目を私に向けただけで、何も言わなかった。それ以上のことを私は聞けず、その後も聞けなかった。今、思えばうっかり本音を言えば、 「非国民」と言われかねないので、母は口をつぐんだのであろう。





         戦争に邁進する覚悟でいた

                        斉藤 彰
                               (当時:国民学校2年生)

 私は山形市生まれです。 昭和16年12月8日、うっすらと雪が積もっていて寒い朝だった記憶があります。月曜日だったので生徒一同講堂に集められて校長先生から開戦の知らせを聞きました。国民学校2年生の時です。---然し、どれだけはっきり覚えているか、となると、それ程正確な記憶としては残っていません。なぜ開戦なのか全く知らなかったわけですから、ただポカンとして聞いていただけだと思います。

 家に帰ってからどうしたか・・・とか、翌日はどうだったか・・・となると、更に覚えていませんね。

 その後、矢継ぎ早に入ってきた戦果---真珠湾攻撃から、そして香港陥落...等々、----それらについても、万歳!、万歳!、勝った!、勝った!---と、まわりに調子を合わせて、はしゃいでいた程度でした。

 やがて、翌年の2月、シンガポール陥落、そして祝勝の提灯行列、と、その頃から次第に状況認識がはっきりしてきた感じがします。
 .
 とにかく、大勝利の気運に乗って、私も「天皇の赤子(せきし)」として必勝の信念に燃えていましたよ。数々の戦果が連日報じられていた事にもよるでしょう。従って、戦争を疑う気持ちなどコレッポッチもありませんでした。

 私は大日本帝国の少国民として、大いなる誇りのもと戦争に邁進する覚悟でいたのです。
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  以上、さしたる記憶ではないにしろ、今とはなっては12月8日を覚えている事自体が自分自身の「お宝」なのだと、これまで以上にその記憶を大切にしていきたいと考えているところです。
.
 ※ その後、5〜6年の頃、終戦前後2年間の新聞切り抜き帳を作っていました。下記をご覧下さい。

「終戦前後2年間の新聞切り抜き帖」
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nenmokuzi.html






                やったあ!

                       児島 廣

                             (当時:高等工業学校2年生)

 当時 浜松高等工業学校通信工学科の2年生、ちょうど学期末試験の最中で午後から始まる試験に備え杉本君(後の福井民放の重役)と二人で、やっかいになっていた家のわれわれの部屋で数学かなにかの勉強をしていました。

 自作のラジオのスイッチを何の気なしに入れたところ耳に飛び込んできたのが例の甲高い声での 戦闘状態にいれり の開戦の放送でした。

 おもわずふたりで 「やったあ」と大声でさけんでつもりつもった鬱憤を吐き出して、畳の上にひっくり返りました。あのころの人口17万ぐらいの地方都市では自動車が頻繁にとおるでなし、たまに自転車のチリンチリンという音がするくらいで本当に静かなものでしたがその日に限って町中がざわついていたように記憶しています。
 
 階段を登ってきたその家の28ぐらいなられた娘さんが、情けなそうな顔をして 「また戦争が続くわねえ。嫌ねえ。」と言われたのをはっきり覚えています。当時のわれわれの感覚ではとんでもないことを言う非国民だというものでしたが、今から思うと先見の明があったようです。

 高速度写真で有名だったFさんと言う先生は一家言をもった方で、「政府は一億一心と言いますがとんでもない話、一億億心です」 「鉄道に勤めている人の子供の切符はタダですがあっちの(わたしの)息子の授業料はタダにゃなりません」と、ときどき愉快な風刺を言う方でした。

 不思議なことにそれ以外あまり記憶がありません。





          航空エンジンを研究していた

                       石渡友勝

                              (当時:海軍航空技術廠)

私は当時航空エンジンのディーゼル化を研究していました。ドイツでは実用化していました。ユンカースユモ水平対抗エンジンです。わたしの友人は開戦の前、水深12メートルでも落とせる魚雷を研究していました。

新聞に真珠湾で黒い煙りを朦々とあげている写真を見ました。私の祖父はその新聞を大事に保管していました。

その後私は2回目の召集(1回目は13年に中支の岳州まで行きました)で鐵道隊から士官学校に派遣され終戦までいました。職業が航空機関係と云うことでインパール行きを免れました。

士官学校の山で夜新宿の空襲を見ました。その後夜中に艦砲射撃の音が聞こえるようになりました。

「Welcome to Wandrer's HomePage」
http://members3.jcom.home.ne.jp/wandrer/






                 軍国三年生の日々

                        首藤教之

                                (当時:国民学校3年生)

-- 寒い朝でした。私は福岡県福岡市、「大名国民学校三年一組、首藤教之」でした。先に起きている姉達が戦争が始まった、アメリカと戦争になったと言っているのを聞いて緊張が体を走りました。一瞬沸き起こったイメージと言うのは、アメリカの最新鋭の戦艦「ノースカロライナ」型が近代的なスマートな形で大平洋の荒波を乗り越えて迫ってくると言うものだったのを、良く覚えています。

 海野十三とか山中峰太郎とかの少年軍事小説のマニアだった私は軍艦や飛行機のことはなんでも暗記しているような少年でしたから、そんな「イメージ」も湧いたのでしょう。ハワイ・真珠湾攻撃の戦果がやがて新聞に大きく報道され、続いて「皇軍」のマレー半島コタバル上陸、そしてマレー沖海戦での英戦艦プリンス・オブ・ウエールスとレパルス撃沈など、新聞の大見出しは次々に私達を興奮させるものでした。食い入るように見る新聞のインキの匂い、ラジオの軍艦マーチは今でも感覚にこびりついています。世間は沸き立っていたのですが、しかし、陰では大人の間でも子どもの間でもひそひそ話が広がっていたのも事実です。真珠湾攻撃では海軍の小型二人乗り特殊潜航艇が五隻加わり、魚雷攻撃をおこなって隊員は戦死し「軍神」とされたのですが、発表された人数が9人だったので、「一人足りないのはなぜか」ということになったのです。「それは、指揮官の岩佐大佐の艇が指揮用の特別な構造で、一人乗りだったからだ」というのがとりあえずもっともらしい説だったのですが、なかには「一人だけ捕まって捕虜になったのでは?」という説もひっそりと語られていたのでした。その捕虜説が本当だったと言うことを皆が知ったのはずっとあと、終戦後であったわけですが・・・。

 しかし、「はなばなしい戦果」の報道のなかに、そんな噂もうづもれて行きました。大部分の人はわくわくしてニュースを楽しみにしていたものと思います。疑問が湧いたとしてもそれは胸の奥深くしまわれたままであったのでしょうが。

 「大きくなったら何になりますか?」と先生が聞き、ひとり一人が立って答えると言うことがありました。といっても、答えは「軍人になる」というのが期待されているだけで、海軍か陸軍かの選択肢があるくらいのものでした。図画の時間はヒーローでも体練の時間ではもっともみじめな存在であった私は「理学博士」と答えました。軍人になると言うのは、運動神経の鈍く強健でもない自分には向いていないと思えたし、軍事空想小説の影響で私は新兵器の発明をやるのが自分の役割としてはほどほどに良いのではないかと思えたからだったと思います。

 やがて、「戦果」もあまりぱっとしないものになり、珊瑚海海戦では「わが方の損害」の中に航空母艦一隻喪失と言うのがあって不吉な感じがしたものでした。そして、ガダルカナルの「転進」(当時の造語、退却のこと)に到るのです。
 





                 父のことば

                       鎌田 隆

                               (当時:国民学校5年生)

昭和16年12月8日、私は、松山市の国民学校5年生でした。朝、ラジオで、「米英両軍と戦闘状態に入れり」という放送を聞きました。学校へ行ったら生徒全員が校庭に集められて校長から、米英と開戦したことをあらためて知らされました。

その夜、父、母、きょうだい5人で食事しているとき、ラジオ放送で真珠湾攻撃のことなどを聞きながら、父は「日本は負けるね」と言いました。父は、内科の開業医でしたが、昭和12年7月いわゆる「支那事変」が始まってすぐに陸軍軍医中尉として召集され、南京大虐殺の現地にいたそうです。そのため、帰還して後、昭和15年に功五級金鵄勲章を貰いましたが、父は、軍医として南京で見聞したことを、よほど苦にしておりました。そのせいか、日本がアメリカ相手に戦争して勝つ見込みは全くないと、始終口にしていました。それで、12月8日の夜、日本は負けると言い切ったのでしょう。

その父は、昭和18年9月、48歳のとき、2度目の召集を受けて死亡しました。私の12月8日は、「日本は負ける」と言った父のことばが真っ先に思い出されます。





          祖父が「万歳、万歳!」

                        岡本三夫

                                (当時:国民学校2年生)

当時、私は栃木県の烏山町(からすやままち)という小さな生まれ故郷にいて、裏庭 を挟んで祖父母が住んでいた。祖父は私を見ると、「みつお、日本の海軍がアメリカ のいくさ舟を何艘も沈めたのじゃ!こりゃ、勝ちいくさだ。万歳、万歳!」と喜んで いたのをハッキリと思い出す。

時系列はさだかでないが、長兄は満蒙開拓団に志願して出征し、長姉は赤十字看護婦として中国へ渡った。十二月八日以後は、やたらに勝利を祝うちょうちん行列があった。敗戦になる2年ほど前に結核で戻ってきた長兄が1945年春に25歳で死に、看病疲れで結核感染した母がその翌年に45歳で死に、2年後に 57歳の父がやはり結核で死んだ。「あの家は結核で滅びる」とささやかれ、「肺病たかり」と嫌われた。長姉は敗戦の翌年、母の死を知らずに20歳で帰国。号泣したのを覚えている。

やがて待っていた一家離散の悲劇など、十二月八日の思い出は艱難辛苦の少年時代を告げる幕開けだった。

「岡本三夫と平和学」
http://www.okamotomitsuo.com/





               やはり負けた

                      佐藤 貞

                             (当時:電話局職員 20歳)

私はたまたま安達太良山麓の実家に泊まって、翌朝囲炉裏を囲んで父母とお茶を飲んでいた。寒い朝だった。そしてあの臨時ニュ−スを聞いた。未だ若くて単純な私は「やった−」と快哉を叫んだ。囲炉裏の煙が戸の節穴から差し込む一条の朝日に揺らいで、何か瑞兆を見るような神秘を感じた。父母は余り喜ばなかった。

福島市の下宿に帰ったら、おばさんが「この戦争負けそうな気がする」と言うのを「絶対勝てるよ」と言い負かした。それから2年経って自分が臨時召集を受けた。中国戦地を彷徨って、下宿のおばさんの心配が本当だったのをつぶさに体験した。日本にはアメリカと戦うだけの力が無かったし、戦う理由も無かったのだ。

「軍隊まんだら」
http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawa






             チチハルの航空隊で

                     木村繁次郎

                     (当時:関東軍航技二等兵 21歳)

旧満州国チチハルの航空隊で
重爆撃機の機種改変(97式〜0式に)
作業教育と、厳しい、初年兵教育を
受けていた、早く前線基地へ往き
たいとの、強い意志と希望を持った

初年兵はとても、酷くシゴカレルと
聞いてはいたが、こんな酷いとは
想像していなかった。

でも、日清・日露戦争を戦った
先輩達もこの、
●シゴキに耐えて、国民の義務
(国民皆兵)を果たしたはず私は
誇りを持って、耐えた。幼い頃より、

教育勅語&国定教科書&軍人勅諭
なぞなぞ、軍国幼年から、少年へと、
教育も遊び、世相も
●総べてが、軍国へ。
北鮮の反日宣伝(最近よく見る)のような
子供や女子をスコップで生き埋めなぞの、

反米英の映画は無いが、京都の街では
大戦前は、犬と米英人は入場お断りの

看板が堂々と出ていた。当然侵略戦争
云々なんて、思う人(一部の共産主義者や

一部の宗教家を除き)又言う人はいない・

●今の人には、想像も付かぬ話・・・

●年月は流れ、約八年後、三年三ヵ月の
シベリア強制労働にも耐え、共産主義
への、洗脳をも撥ね付け、帰還。
当時国連が、人間の尊厳が宣言され
●国よりも、一人一人の人権が重いと。
国ありて、人在りが、人ありて國在り
●この主義は、色々と俎板に乗りそうで
理屈好きの人はやって下さい???
●十二月八日に関係ない話ですが
十二月四日〜十二月十日までが
「人権週間」です、ですから、あえて
書きました。
●現在においても、最大の人権侵害
とも言うべき戦争が絶えない。

十二月八日にこの事を重ね合わせて
想い浮かべました。

「吾が本棚」
http://www.eonet.ne.jp/~skk/







           高揚した気持ちで登校

                       味香興郎

                               (当時:国民学校3年生)

 16年12月8日は冬晴れの寒い日であった。開戦を親から教えられ、なんだか高揚した気持ちで登校した記憶がある。

 その後、小学校の校庭で出征兵士を送る行事が屡々行われるようになった。生徒を代表して、学校から500米くらい離れた駅まで、日の丸を掲げて行列し駅迄見送ったものだ。電車から身体を乗り出し、出征して行かれた兵士の姿が昨日のことのように思い出される。

 過日、東京の九段坂にある日本の戦中戦後のくらしを保存する国立の施設「昭和館」を見学して、当時の担任であった、奥山先生を思い出した。先生も出征され、その後の消息は知れない。戦死されていないだろうか。先生の消息を調べてみたい、先生の郷里の役場に手紙を出してみてはと考えているところです。

 満州の奉天へ行った級友がいた。奉天というと彼を思いだす。どうしただろうか。韓国からきていた、金城君はどうしているだろうかと思いは巡る。
 





            軍国少年は ただ興奮を

                       大西吉雄

                         (当時:国民学校4年生)

12月8日の臨時ニュース「帝国陸海軍は、アメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」は、朝食のときに父から聞きました。父は、「これからは大変な時代になるぞ」というような話をしてくれました。私は、詳しいことも判らずに、ただ興奮していました。

昭和7年早生まれの私は、大阪市立真田山国民学校の4年生。実家は大阪城の南・上町台地の商業区域にありました。1年生で「国家総動員令」が、3年生の昭和15年9月に「紀元2600年記念式典」がありました。国民学校の東隣は陸軍墓地。父方の伯父は大阪陸軍幼年学校の教官でした。小学校入学いらいの軍国教育で鍛えられて私は軍国少年ひと筋を歩んでいたと思います。父の大変な時代になるのひとつは、父が西賑町で経営していた合名会社・大西鉱油店{機械油(通称マシン油)、鉱油(石油のこと)卸業}の仕入れ元が、アメリカの有名な「スタンダード・バァキューム・オイル」のルートからでしたので家業はいずれ強制的に閉鎖されるだろうと直感したからしょう。これは5年生になってから理解しました。 

それでも、軍国少年の私は、「神国日本は勝つ」と信じ、「鬼畜米英」の標語を唱えていました。緒戦にアメリカの太平洋基地・ハワイを壊滅させ、マレイ沖ではイギリスの東洋艦隊の戦艦2隻を撃沈したことで、軍国少年はますます狂喜しました。

少年時代からの一方的政治教育あるいは宗教教育が、今も多くの国で行われていますね。残念ですが。





             緊張で身震い
                          塚田 茂

                           (当時:中学校2年生)

開戦の日、私は大阪市立東商業学校の2年生でした。学校へ行くと、すぐ校庭に全校生徒は集められ、校長からわが国がアメリカ・イギリス軍と戦争状態になった話がありました。今でも鮮明に思い出します。 私は緊張で身震いしました。

結局、戦争に敗れて、我々は大変な困難な時代を過した訳ですが、軍閥、(特に陸軍)が権力を振り回していたことを思えば、戦後、日本人が自由を得てよかったと思います。

同時に、東南アジアの諸国が、英仏蘭の植民地から解放されたのを、何時の日か後世の歴史が語ってくれることでしょう。





     母はご飯がのどを通らなかった

                             宮下春子

                                (当時:5歳)

 十二月八日は小学四年生の姉の懇談会があり、姉が通っている小学校に行きました。午前は授業参観、午後は個人懇談会がありました。午前の参観が終わり畳敷きの裁縫室でお弁当を食べていました。

 そこに先生が入ってきて何か話したのですが、話の内容が日米の開戦であった事は勿論分かりませんでした。

 ずっと後になって母からその時の思い出話を聞きました。
「叔父さん(母の弟、当時27歳)が戦争に行くんじゃないかと思うと、ご飯がのどを通らなかった」

 母子家庭でラジオがなく母はお昼に先生の話を聞くまで開戦を知らなかったのでしょう。                  





            興奮した調子の放送

                         指方英佑
                               (当時:国民学校2年生)

国民学校(小学校)2年生の冬、すなわち昭和16年(1941年)12月8日にあの忌まわしい、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争に突入した。このときからの数年間は正にこの国の暗黒の時代であった。

この日の朝のことはいまだに鮮明に覚えている。確か早朝にラジオで開戦の放送が行われた。とても寒い晴れた日であった。ラジオは「今朝?わが軍は太平洋上にて米国と戦闘状態に入れり、戦果は○○‥」と非常に高揚したアナウンスの声を何度となく繰り返し流していた。

なぜか何時は職業柄(出版物編集者)早起きはしたことがない親父が飛び起き、縁側のガラス戸や座敷の障子を全て開け放したのだ。寒気がどっと流れ込んできた。寒いのでフトンにもぐりこんでいた私は「一体何事だ!」と思ったが、たたき起こされてしまったのを覚えている。

ラジオ放送は興奮した調子で同じことを繰り返していたと思う。なんだか判らないが、ただならぬものを感じ、子供心にも厳粛な気分になった。インテリの端くれだった親父が何故こんな行動を取ったのか分からないがその時の気持ちを率直に表したかったのだろう。

この頃から後年、ウソの代名詞になった「大本営発表」がラジオや新聞で軍部の戦果の発表として行われ、我々はそのでたらめな内容に惑わされることになるのだが、この時のアナウンスの調子や内容は、今北朝鮮のテレビなどでキャスターが勿体つけてオーバーなアクションでしゃべっている調子にそっくりであった。

日本語と韓国語発音は非常に似通っているのでなお更である。北朝鮮の国民が騙されないことを心から望むものだが所詮ムリな話だろう‥。

「指爺のモノローグへようこそ!」
http://www.toshima.ne.jp/~esashi/





            満蒙開拓青少年義勇軍に応募

                         綱島米作 
                               (当時:国民学校高等科)

この日の朝私は満蒙開拓青少年義勇軍に応募の願書を拓務省に提出しました。当時の大臣は井野ヒロヤ様でした。

それで、翌年十七年二月二日月曜日朝。3日後の5日に満洲に出発せよ、との命令が降りました。当時私はまだ小学校在学中で二月一日で14歳になったところでした。私にとっては忘れる事のできない日です。お国の為に尽くしたものです。

太平洋戦争の事を細かく書いてありますのにこの義勇軍について何も書いてなく少し憤りをかんじまして申し上げました。

追伸この義勇軍の制度は昭和12年より20年終戦まででした。





                父の出征中に

                          福井厚子
                                (当時:国民学校4年生)

私は当時国民学校4年生でした。開戦当日のことは記憶も大分薄れましたが当時の周辺の様子などを思い出しながら書いてみます。

亡父は開戦前の昭和16年夏に私を頭に幼子3人と亡母を残し出征しました。平服、頭はそのまま丸坊主不可、隣近所の挨拶もなし、風呂敷1つで見送りもない淋しい出征でした。すべて軍の命令で秘密裏の開戦準備です。

昭和12年の日中戦争にも応召しましたが、祝い酒、祝応召の幟、道路整理のお巡りさんと、まるでお祭り騒ぎで母の心中はいかばかりであったろうと思います。

間もなく北満のハルピンより軍事郵便が届くようになりました。筆まめの父からの便りが暫く途絶え心配していたら12月8日の大本営発表です。同時に真珠湾攻撃の大勝利の発表で鬼畜米英、一億一心の言葉が巷に溢れていました。子供心にも戦争に向かって押せ押せの時代で世の中の殆ど人々は気持ちが高揚していたと思います。子供心にも「欲しがりません勝つまでは」と言うような気持ちでした。暫くして南方派遣からの便りが届くようになり後に当時の昭南島今のシンガポールと分かりました。開戦と同時にマレー半島に上陸して南下、かなりの激戦地だったと思います。

当時は出征兵士の家庭は珍しくなく銃後の守りと誇りにし又学校でも父に恥じないようにとすぐに言われました。表向きとは違い父の居ない家庭は淋しい限り父は遠く離れた家族に思いを馳せていたと思います。

でも古参兵とかで無事に帰還しました。60年余前のことですが涙が出そうです。





        12月8日朝、横須賀軍港に帰港

                         菊池金雄
                        (海軍徴用船・次席通信士
         
 当事私は海軍徴用船「恵昭丸」(大同海運の貨物船、5800総トン)の次席通信士として乗り組んでいた。この船の任務は南洋群島の島々に散在する海軍航空隊の基地に、ドラム缶入り航空ガソリンの輸送だった。

 現地に着いたら、各島々が不沈空母的に飛行場が設営され、まるでトンボが群れるように海軍機が離着陸し、戦争がはじまったような錯覚にとらわれた。

 各小島には大型船の荷役桟橋もなく、はしけでの陸揚げ作業に長時日を要し、約一ヶ月後に横須賀向け帰路につき、12月8日朝東京湾口にさしかかった。そして開戦のラジオ放送があり、横須賀に入港したら軍人たちは殺気だっていた。

 同船は任務がら、遠からず開戦予想はしていたが、まさかこの日とは意外だった。実は前夜(7日)東京湾の入り口で触雷した日本の貨物船から国際遭難電波である500キロサイクルでSOSが発信された。まさか翌日開戦するとは部外者は知るはずもなく。船内でも「いったい日本海軍どうなってるの?」と不審感をかもしたのは当然であろう。

 ところが、くだんのSOSは一回発信されただけで尻切れとんぼになった。通常なら最寄り陸上海岸局や、近在の各航行船舶から救助のための通信が殺到するのであるが、そんな気配もなく、全く不可解なSOSであった。

 後日、本件を検証するに、翌日の開戦に間に合うように海軍が東京湾口に防潜機雷柵を敷設中に前記貨物船が触雷したため、海軍側があわてて各方面に無線封鎖を厳命したものと推察される。例えば、銚子海岸局には海軍から情報将校が駐在し,この種機密情報は即時封印されたものと思われ、同局OBに本件感知の有無を尋ねたが、耳にしたことなしとのことであった。若しこのSOSをキャッチしたOBが居られるなら是非お知らせくださるようお願いします。

「硝煙の海」
http://www.geocities.jp/kaneojp/






          不安とやったという気持ち

                       鈴木 俊

                               (当時:航空機製作所

当時三菱名古屋航空機製作所に勤務しておりました。この放送は全員が集まって聞いたように思います。不安とやったと言う気持ちが高揚しましたな。当時の大本営発表は信頼ある報道でした。発表がおかしくなったのは ミッドウエイあたりからでしょうかね。

B29には、ゼロ戦を作っていたので、散々爆撃をうけ、個人的にも多くの知人友人を失いましたなあ。自分も何回か命拾い。

その後二十年三月に沖縄要員として、召集。しかし輸送船が無くなり本土防衛の陣地作り。陣地はしろとが作ったのにも関わらず、壕の上に艦砲射撃を十発ばかりうけましたが、びくともしなかったですよ。





          ほとんど覚えていなかった

                        和田喜太郎
                          (当時:国民学校5年生)

 たしか国民学校に呼称が変わって5年生でしたが、1941年12月8日のことはほとんど覚えていません。ただ、級長の西岡君が「やったやった」「今朝お父さんと話したんだ」などと、一人ではしやいでいたことだけは覚えています。

 アタマのいい級長の開口一番のせいか、みんなは白けていました。校長や担任が朝礼などで何か言った筈ですが、これも覚えていません。だいたいが私ら、みんなアホでしたから、親と天下国家の大事について話すこともなく、級友や近所の子ども仲間とも、日米開戦を期待する論議など全くしなかったのでないかと思います。

 ラジオは金持ちの家しかありませんでした。新聞くらいはどの家でもとっていましたが、私ら子どもがそれほど読んでいたとは思えません。

 西岡君はどこか都会からの転校生で、父親は実業学校の教師でこの町の学校に赴任したわけです。西岡君は男前で、しゃべる言葉も標準語で持ち物だって私らのような安もんと違っていました。6年を卒業すると、彼のようにエエトコのぼんぼんで頭のいいもんは旧制の中学に進学しましたので、その後の消息は知りません。

 年齢や思考力の問題もありますが、「大東亜戦争」開戦当時はまだのんびりしていました。しかしそれからが、物不足、召集や徴用、勤労動員など戦時色が次第に強くなり、戦争のなかにいることを実感するようになりました。





        強烈なパンチを受けた

                    森迫康人

                          (当時:商業学校1年生)

昭和16年12月8日は14才でした、当時の私は大分県立臼杵商業学校1年生で、当日は通学バスで、早朝7時30分頃学校に到着、当日は非常に寒かったです。

校舎の渡り廊下の掲示板の前で、生徒が数人固まっておりました、私は何が掲示されているのかと見ましたら、太平洋戦争開戦の告知で強烈なパンチを受けた感じでした。

その内容は、今でも鮮明に覚えています、『わが帝国陸海軍は西太平洋上において、米英軍と戦闘状態に入れり・・・』と文言が掲出され、少年ながら興奮しました。

当日の朝礼では校長先生の訓示が、非常に長かった思い出が去来しています。





             興奮しながら登校

                     高木三郎
                           (当時:国民学校高等科2年生)

国民学校高等科2年14歳のとき、昭和16年11月末、日米交渉も最終案で決裂寸前であった。

12月8日朝、友人らと登校途中で学校に到着する直前のことであった。校門近くの文房具店のラジオから、勇ましい軍艦マーチが流れて、「帝国陸海軍は、八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり、」と張り詰めたアナウンサーの声が聞こえた。引き続いてハワイ真珠湾攻撃の大戦果発表(・・・米太平洋艦隊壊滅・・・)に、友人らと思わず万歳を叫び興奮しながら登校した。

朝礼で校長先生から「宣戦の大詔」の発表が行われ「いよいよ日本は、支那をはじめ米英オランダとも戦争することになった。この戦争は大東亜建設のためであって、戦争に勝つため銃後の守りをしっかりやらねばの指導があった。

開戦当初は連戦連勝で、学校中みんなは興奮と緊張につつまれた。また、「撃ちしやまん」「欲しがりません勝つまでは」「天皇陛下の赤子なり」兵隊さんに負けるな」などの声が聞かれた。


(追記)
昭和17年4月就職で、国際電気通信(株)講習所依佐美支所(技術予科)に入ったとき聞いた話から、昭和16年12月2日夜、ハワイ真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊(空襲部隊:航空母艦6隻、警戒部隊:軽巡1隻・駆逐艦9隻、支援部隊:戦艦2隻・重巡2隻、哨戒部隊:伊号潜水艦3隻、補給部隊:給油艦など7隻から構成)に、開戦日を知らせる電文「ニイタカヤマノボレ1208」が、ここ依佐美送信所経由で発信された。

当時、依佐美送信所長波700KW送信機と短波20KW送信機3台を日本海軍が作戦用に使用、横須賀操縦(各地の軍施設から送られた電信を紙テープに暗号にさん孔、重要度順に自動発信機に掛けられ)で、依佐美(長波・短波)や小山(短波)を経由し発信された。





      大和魂の権化のような校長先生

                        岩本 晢
                                (当時:国民学校1年生)

 あの日のことは今でも良く覚えています。我が家では4人子どもがいて、私は歯を磨いていた時に父から戦争が始まったことを聞きました。父はあの有名な大本営発表を聞いたのです。

 その後学校へ行ったら、大和魂の権化のような校長先生から開戦の話がありました。1年生でしたから、その時の中味は忘れましたが、例の熱誠溢れる話でした。

 その後に「九軍神に続け」という話をラジオなどで良く聞き、また標語を見ました。一部の上級生が「なんで十軍神でなくて、九軍神か知ってるか」と言う質問をしてきましたが、難しいので、無視していました。戦後にその中味が分かりました。





         日本はものすごいものだ

                        熊川 賢

                          (当時:国民学校4年生)

 昭和16年12月8日、朝のラジオニュースの時間、アナウンサーの「大本営発表、大本営発表」という予告の後、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という内容であった。

 その後、アナウンサーは「着々と戦果を拡大していますが、油断は絶対に禁物であります」というフレーズを何回も何回もくり返した。

 「未明(みめい)」とか「禁物(きんもつ)」などは、初めて聞く言葉であった。十日ほど前に、父が買ったラジオが役に立ったのである。

 「西太平洋において」というのも不思議であったが、その時間に発表できる戦果がマレー半島上陸、上海での米英砲艦撃沈だったからであろう。真珠湾攻撃などはやや遅れて発表されたのである。

 私は、おまけにもらった「グリコ日記」に書いていている。

 「今日の明け方、日米こうしょうはれつして、日本軍は、まだ敵軍がねているとき、グアム島、ウエーク島、ハワイなどを大ばくげきした。日本はものすごいものだ」。

 多くの国民の、「やはり!とうとう、やったか!」という緊張感は、「勝った、勝った」とやや浮かた感じに変わっいったように思う。

 何日か過ぎたころ、母の実家の祖父の様子が耳に入った。

 「自分は日露戦争に行った。あれは勝ちいくさだと、よくいわれるが、勝った形の講和条約をまとめてくれたのはアメリカだ。それと戦争して、勝てるわけがない」などと、いってのだそうだ。こんなことが憲兵の耳にでも入ったら大変だと、気が気でなく、心配しているそうだ。

 私の父は、昭和12年、日中事変勃発の翌月の8月に召集され、2年間の従軍後に帰還した。しかし、昭和19年の再召集では帰ることはできず、ルソン島の土となった。終戦の1カ月前であった。
                  





              日米開戦の日

                       荒武千恵子

                              (当時:国民学校5年生)

その日はよく晴れ上がって、冬にしては暖かい日であった。

 朝6時半ごろだったかと思うが、急にラジオが ”臨時ニユースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。”と連呼した。

”本日未明、太平洋上において、米英両国と戦闘状態に入れり。”という言葉で家中に緊張が走った。

 その日の11時頃だったか,小使いさんが教室にやってきて、先生になにやら話していると思ったら、 先生がこちらへ向き直り、満面の笑みを浮かべて

 ”おい。みんな。日本軍は真珠湾で、航空母艦、戦艦、巡洋艦などをやつけたそうだ。”

 ”万歳! 万歳! 万歳!”

 ちょうど算数の時間で、持っていたそろばんを片手にみんなで万歳を繰り返したのを覚えている。
 
 家に帰ると、父が竹藪の前にござを敷き軍用行李を出して、中のものを虫干ししていた。

 父は陸軍予備将校だったので、自分で、軍服や皮のゲートル、サーベル、水筒、軍靴などを用意していたのである。

 それを並べながら、私をそばに呼んだ。

"お父さんは何時陛下のお召しがあるかわからない。 何時お召しがあってもいいように準備はしてあるが、お父さんが出征してしまったら、おばあちゃんは年だし、お母さんは身体が弱いし、お前に頼んでおくしかない。よくお母さんを助けて弟妹の面倒を見るように。

 フランスには昔ジャンヌダルクという少女がいて、先頭に立って戦って国を勝利に導いた。

 お前も何かあった時には、千万人と言えども、吾行かんの気概を持って戦え。”と、言ったのである。

 小学校5年生の小さな少女にこんな言葉を残さなければならなかった父の気持ちはどんなに辛かったかと思う。

この文章は、荒武さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。

「80ばあちゃん