日本が戦争に敗れた、1945年(昭和20年)8月15日の思い出を、皆さんからお寄せいただきました。
各タイトルをクリックしてください。     (敬称略) (当時)
一切に耐えよう 大石義一 農業 (39歳)
数日間庭で日本刀を振り回した 多田 清 在郷軍人(元陸軍軍曹)
そうだ帰れるんだ 榎本翁市 南海派遣第17軍独立無線
将に晴天の霹靂だった 新田直人 関東軍少尉
ラジオが壊れていて聞こえず 石渡友勝 陸軍士官学校練成隊
堪え難きを堪え  福島幸三郎 タイ駐屯、陸軍中尉
無線で必死に受信した終戦の詔書 五十嵐正一 陸軍無線通信兵
玉音放送 菊池金雄 輸送船無線局長
眠れなかった敗戦の一夜 民喜与吉 陸軍兵士(シンガポール駐屯)
満州国軍が叛乱したとのニユースで 桑原靖夫 関東軍兵士
新京の街に轟く大喚声  池田幸一 関東軍兵士
シベリヤ抑留の序章 平野嘉男 満州・輜重兵幹部候補生教育隊
「満州国」崩壊 井筒紀久枝 大陸の花嫁 (24歳)
木製飛行機の開発中に 加藤禮一 軍需省、海軍技術大尉
負けた悔しさで胸いっぱい 児島 広 海軍第23特別根拠地隊・中尉
ジャワで迎えた敗戦 大庭定男 バンドン市、旅団司令部陸軍主計将校
あわや戦車で宮内省の攻撃も 神戸真一 近衛騎兵連隊戦車中隊上等兵
皆無口になった 大隅良平 東京防衛軍兵士
特攻終了の日 澤田喜久雄 陸軍・海上挺身第五戦隊
夕食も皆半分も食べられず 岩上晴雄 海軍中尉・海竜特攻隊員
腹切りを許してもらった 須山栄三 海軍・蛟竜特攻隊員
運命の八月十五日 永末千里 海軍・白菊特攻隊員
朝鮮の王族邸にて  伊豆利彦 朝鮮駐屯、陸軍二等兵
灼熱の北朝鮮最後の決戦8月15日 小畠直行 北朝鮮駐屯、陸軍一等兵(18歳
偶感「昭和二十年八月十五日」 古林肇道 陸軍特別甲種幹部候補生
南京支那派遣軍総司令部女子軍属宿舎にて  加藤登美子 支那派遣軍軍属(19歳
私の終戦の日 加藤福平 ハワイ収容所、元サイパン軍属(18歳)
ポツダム宣言受諾通告を送信 高木三郎 河内送信所勤務(18歳)
製作中の特攻機の翼の下で終戦放送を聞いた 金子ひろし 徴用工(18歳)
泣きもせず、すべて拍子抜けだった 和田喜太郎 木工会社従業員(15歳
わけもわからず聞いた玉音放送 酒巻伊助 陸軍少年通信兵学校生徒
幼年学校の遊泳演習中に  寺谷五男 陸軍幼年学校生徒
その日に汽車で熊本から神戸へ 岡本春樹 大学2年生
原爆負傷者収容所で聞いた重大放送 佐野博敏  工業専門学校1年生
平和の実感 新妻英雄 工業専門学校1年生
動員先で迎えた8月15日 布施濤雄 高等学校1年生
戦争はいやだ 林 幸三 実業学校
泣いても泣き切れないものがあった 鈴木善弥 中学校4年生
軍国主義魂は急速に消えて  長岡 豊 中学校4年生
ポツダム宣言受諾だと? 島内義行 中学校3年生
みんな我に返り泣いた 片岡 隆 中学校3年生
ソ連戦車に体当たりを覚悟していた 石原 昭 中学校3年生
終戦の日 荒武千恵子 高等女学校3年生
終戦のラジオ放送は雑音で聞こえなかった 大西吉雄 中学校2年生
壱岐での終戦の思い出 齋藤茂夫 中学校2年生
軍国少年の夏  明石善之助 中学校2年生
私の八月十五日 井澤壽治 中学校2年生
負けたなどとは思いもしなかった 福井厚子 高等女学校2年生
誰も責任をとらなかった  片山節男 中学校1年生
玉音放送を聞く 志村建世 国民学校6年生
あの日も暑かった 井上圭史 国民学校6年生
すいとんも 数倍美味しく食べられた 外丸 繁 国民学校6年生
カンカン照りであった 齋藤 彰 国民学校6年生
無条件降伏の日 上田博章 国民学校6年生
へぇー そんなものか 指方英佑 国民学校6年生
えらい人の言うことが信じられなくなった日 西羽 潔 国民学校6年生
あの戦争は何だったのか 杉浦正健 国民学校5年生
疎開から帰れる喜び 村野寿美 国民学校5年生
大混乱が待っていた 桐井加米彦 国民学校4年生
桜の木の下で終戦 中山善之 国民学校4年生
「神」と教えられていた天皇の声 村山正之 国民学校4年生
母の涙は安堵の涙 布村 建 国民学校3年生
万歳っ!空襲がなくなる 横川公彦 国民学校3年生
長春で迎えた八月十五日 池田武久 国民学校3年生
8月15日は大漁だった! 廣田年亮 国民学校3年生
新聞を切り抜いた「終戦詔書」 西羽 晃 国民学校3年生
終戦 保科好信 国民学校2年生
なんとなく「ホッ」とした 石田長昭 国民学校2年生
私の8月15日の思い出 岡村京子 国民学校1年生
故郷、疎開先で 山本芳雄 6歳
セミ捕りから帰って 村野井徹夫 5歳
特攻隊員たち 朱矢義彦 2歳
逃避行のさなか 徳重義彦 1歳



ラジオをクリックすると、昭和天皇の「玉音放送」が聞けます。

このページは皆様からの投稿で構成しています。どうかご投稿をお願いします

1945年(昭和20年)8月15日の思い出をご投稿ください。ご家族などから、聞かれたことでも結構です。

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私の十二月八日


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             一切に耐えよう

                         大石義一

                              (当時:39歳 農業)

8月15日 雨

 「昭和20年8月15日正午」われわれ日本民族の地球上に続く限り、この日は永遠に我々から忘れられないだろう。

 昭和12年7月に始まった支那事変よりさらに昭和16年12月より加われる大東亜戦争によって本日に至る約10年支那を更に米英ソ否全世界を相手に血のにじむ激闘を繰り返した10年。その血と一切の力を出し尽くしたわが帝国はこの日を持って敵国の示せる停戦の表示に、「ポツダム宣言」を受諾することに決した。

 この日畏多くも聖上親しくラジオ放送を遊ばさるの言朝よりあった。そして盆休みの今日、皆それぞれ用意してその時を待ち、正午になって、只今ヨリ重大放送があります、と発表「全国の皆様ご起立願います」それから君が代がはじまり天皇陛下の有史以来のラジオ放送が行われた。録音によったためか詔書のお言葉は分からなかったが、次に内閣発表がありそれがハッキリ「大東亜戦争の局をむすぶのやむなきになれり」といい「ポツダム宣言の受諾」を発表。更にそれまでの一切の経過が発表された。更に3時の報道の折には同一のことが報ぜられ、尚14日よる陸軍大臣阿南大将は陸軍大臣官邸において「大君の深き恵みにあらず身は言い残すべき片言もなし」の辞世をのこし自刃セリと発表された。尚よる7時の報道も同一のことが報ぜられ鈴木総理大臣の大詔を拝し奉りてのラジオ講演がおこなわれ、更に9時には内閣総辞職が発表された。

 ポツダム宣言受諾するになった最も大きな一つは敵が広島および長崎において行われた新しい爆弾「原子爆弾」の非常な破壊力と、もう一つはソ連の戦争介入のためにやむをえず敵に対して無条件降伏というわが民族始まって以来の情けない結果を来たられしものなのだ。

 戦争は終わった。がさて我々に戦後にくる敗戦国という情けない待遇の下に、限り知らぬ苦難の道を歩くことになったのだ。
 
 耐えよう。耐えよう。一切に耐えよう。


この文章は、故人の残された日記を、ご子息のお許しを得て、掲載させていただきました。




          無線で必死に受信した終戦の詔書
                             
                            五十嵐正一
                        
(当時:陸軍無線通信兵)

 8月15日は毎年やって来て、そして去ってゆく。まことに当然の事なのに、私たち老人にとっての8月15日は、忘れ得ぬ日であり、それも昭和20年の8月15日が「8月15日」の決定版である。

 その日、南溟の地に在っての特異な体験は一生を通じての一,二の位置を占めている。

 さて私は大正9年1月、東京市本所区に生まれ、昭和16年1月現役兵として神奈川県相模原の電信第一聯隊に入営した。

 同年9月動員、10月東京港出帆、台湾、海南島を経て12月8日開戦劈頭のマレー半島に上陸、ついでシンガポール攻略作戦、北部スマトラ戡定作戦に無線通信兵として、トン・ツーに、暗号作業に従事した。

 18年10月独立無線第78小隊に転属アンボン島に転進、18年11月〜19年2月、中部ニューギニアのワクデ島に派遣された。

 19年3月、電信第26聯隊編成に伴い、無線隊第8小隊に組み込まれ、4月その任地小スンダ列島フロレス島(ティモール島の西隣の島)に赴いた。

 この小隊に来てからの私の任務は本命の通信そのものから離れ、事務系統の全般を受け持つようになった。

 しかし通信機から全く離れてしまうのは寂しい限りであるので、内地からの生文(ナマブン)放送のニュース(同盟通信社の無線トン・ツー)を受信し、カタカナ文をヒラ文に直して、新聞速報の如きものを毎日1回発行した。これは、ラジオその他、他所からは何の情報もない地にあっては誠に貴重なニュースソースで大いに歓迎された。

 私の居たところは南緯10度位のところで、それこそ、南方中の南方で四季などは全くなく年中夏ばかりで、気象の変化も、乾期・雨期が在るほかは取り立ててのこともない。

 従って毎日がマンネリ続きで他地区の戦闘状況も遠いが故、切実さに欠けて惰性で日を送っていた。

 8月15日も、平常通り勤務・作業を行っていた。

 正午少し過ぎた頃、通信室から兵が私の居る事務室へ受信した電報用紙を持って入ってきた。彼の指さす箇所(指定欄)に「ライ」とある。私「何だ、これは?」彼「おかしいですね」

 この会話こそおかしい限りである。何故なら、最大に重要な電報が「ライ」即ち「軍機」であるからだ。過去の各作戦中弾丸両飛の間にあってもこのライとは関係なく、駐屯してからも全くの無縁であった。私の配属は近衛師団であり又、軍司令部内にあった時でさえお目にかかったことがないのであるからである。

 「スワ!何事ぞ」と隊内は色めき立った。小隊長はすぐさま防衛司令部へ走る。

 隊員一同「何だろう」「敵さんが来襲するのか」「いよいよ艦砲射撃が来るか」ととりどりに話し合う。落ち着かないまま数時間が経った。

 3時頃か、防衛隊から電話で「軍通、ラジオがあったら聴いてくれ」の要請があった。何を聴くのか目的は判らないが重大放送だとのことである。困り果て窮余の一策として同盟無線聴取を思いついて、昼間は困難とは思ったがとにかく何とかしたい使命感からそうすることにした。念のため、受話器を片耳ずつ小隊長と私が受信することにした。

 しかし最悪の条件なので神経を集中、頭が痛くなる程であった。そればかりの障害だけはでなく、この送信者があまりの緊張の故か、送信字号が滑らかでなく、やたら訂正をするのには大いに悩まされた。

 トトトトの連続、数文字叩いて又繰り返すのだ。これでは果たしてどこから再送しているのか判らない。仕方がないので全部書くようにした。電鍵を持った人の震えは胸に伝わってくるようだった。

 さて、終わって愕然とした。受信中も何か異様な感もあったが、ピーピーを追いかけるのに夢中で、改めて見直すと事の重大さがはっきりして来た。勅語の前文にポツダム宣言受諾の旨があるが,私達はこの宣言を知らないから何を受諾したのだろうかと思った。

 勅語は特有の難しい言葉や文字で綴られて、何箇所も( )で文字説明がついている。この中に、字号不明瞭と訂正過多が混入していて、とてもスムーズに行くわけがなく、多くの時間を費やした。少しずつ文章になってきて,判読も確実性を増し、全文を復元した。当然赤い傍線を何本も副えた。

 小隊長は即刻,防衛隊へ届けに走った。この内容は別命ある迄極秘とするよう厳命されたのは勿論である。この日は偶々、師団長(48D長土橋中将)が来島していた。それ故「ライ」電が発せられたのであろう。

 終戦の詔書は現地では下達、内地ではラジオ放送によって知らされ、その直後、誰しもが晴天のヘキレキの如く茫然自失の体であったと述懐する。だが、私は受信文の難解さに一心不乱に事務的作業に取り組み、事の重大さは一文字一文字に確認してしまって、それがため余人より比較的冷静さを保ち得たように思えた。我々はこの後、上層部よりの指示を待ちながら通信業務に専念した。      





           眠れなかった敗戦の一夜

                          民喜与吉
                   (当時:陸軍兵士-シンガポール駐屯-)

8月15日

 終戦の詔書が発布される。橘村の高地で一同集合して、ラジオで聞くことになっていたが、十分に聞きとれないで、そこで将兵は信じなかったのであった。そこで閑院若宮殿下が昭南へ飛行機でこられて始めて承知をしたことであった。

 志気は、混乱した。このどさくさに、まぎれて独身の血気に逸っているものは、銃で自らこめかみを撃って死ぬ者あり、便所で首をつって死する者あり、精神病になって行方不明の者あり、又逃亡する者あり、誠に見苦しい情を呈したわけであった。

 戦時態勢は一変して南方軍総司令部も連合軍の指揮下に入れられてしまった。しかし整理すべき物は整理をし、不用物の焼却、鉄帽の整理、持物整理、室内整理、倉庫の整理、等に徐々に手を着けて行った。

 この夜こそ、ほんとうに寝入れなかった。敗戦と言う大きなショックと夜間の警備を十分にしないと、どんな暴徒が来るかわからないからであった。不寝番が交替に立っても、安心して休めなかったのであった。生まれて始めて体験した敗戦の一夜であった。それだけに眠れなかったのである。これからの不安も、時々刻々と増して行った。程々と妄想が付きまとって行ったからである。しかし生命だけは、大切にしなくては、いけないと自重自愛していたのでした。

この文章は、故人の残された日記を、ご子息のお許しを得て、下記HPから転載させていただきました。

「東南アジア特集日記」
http://www.nmt.ne.jp/~tamiki/ikou_01.htm



               「満州国」崩壊
                          井筒 紀久枝 

                        (当時:24歳 大陸の花嫁)

旧満州チチハルから、二百キロ奥地の開拓団にいた私たちは、ラジオもなく新聞もとらず、祖国の戦況は何も知らなかったが、八月九日の、ソ連との開戦は知らされた。そして八月十四日、わずかに残っている男をかきさらえるように、召集令状がき た。私たちは、かつて夫の応召の時にも見せなかった涙だったが、そのときは大声をあげて泣きながら、見送った。

ところがその人たちは、十五日の夕方、戻って来た。異国の地とはいえ、銃後の私たちの取り乱した悲しみ方に、その人たちは応召拒否したのだろうか。私たちは「非国民」に、という思いが、私の脳裏をかすめた。だが、その人たちは拉哈までは行ったが汽車は動いておらず、街なかの雰囲気が異常だったという。翌十六日の本部内の緊迫した空気は、その現実を私たちにどのように伝えたらいいか、検討されていたのかも知れない。

十七日の夕方。
「嬉しいことを知らせに来ました。戦争は終わったのです」
本部の方が、少しも嬉しそうでない沈痛な面持ちで、私たちの宿舎へ知らせに来られた。
「日本は勝ったんですね」と、口を揃えた。
「無条件降伏です。天皇陛下が無条件降伏を宣言されたのです」
「団長、私たちはどうなるのです。これからどうすればいいんです」

私たちは団長に掛け合いに行った。
「もうじき加藤完治(満州開拓創始者)先生が飛行機で迎えに来てくれるやろ」
冗談とも真面目ともつかぬ、団長の返事だった。

敵国の真っただ中で祖国の敗戦を知った私たちの間で、いろいろな意見が飛び交い、自決組と自決反対組に分かれた。国民学校校長の坂根先生は自決組の先頭者で、教え子や義勇隊の女たちはそれに賛同した。生きて敵に辱めを受けるより、敵に殺されるより、自分の意思で命を絶とうと思ったからである。

八月二十日、その日はわが子の満一歳の誕生日だった。その短い命を詫びながら、わが子にも白鉢巻きをさせた。午前十時、学校へ集まって坂根先生の銃で殺していただく、校舎には石油が撒かれ、最後に、先生が火を放つことになっていた。

ところがその直前になって、団長や反対組の主(おも)だった人が、妨害に来た。
「きみたちの夫は、やがてここへ戻って来るだろう。その時どう説明すればいいんだ。このまま見殺しには出来ないのだ」

すでに決意している私たちは、反論した。が、「公共の学校を焼くことは許せない」と、厳しく言われたので、決行出来なかった。

しかし、その翌日、坂根先生一家六人は自決を遂行された。教員宿舎の前にご家族は毅然と立たれ、先生は自決組だった私たちに向かって、最後のことばを残された。
「先立つことを許して欲しい。あなたたちは生き延びて、祖国の復興に努めて欲しい」

私たちは返すことばもなく、静かに宿舎へ入って行かれるご家族を見送りながら、誰からともなく「君が代」を歌い出していた。二人の男の子の泣き声は二発の銃声で消えた。私たちは、教員宿舎の前で固唾を呑んで立ちすくみ、六発、七発の銃声を聞いていた。

血しぶきの散ったペチカの白壁には、大和魂が祖国とともに北満の果てに散って行く、という意味の辞世の歌が記されてあった。

武装解除は二十五日。男たちは小銃、拳銃、刀剣、弾丸を集めて大車(ダーチョ)に積み、平陽鎮(へいようちん)警察署へ運んで行った。その日、留守の本部を守っていた少年二人が襲撃され、瀕死の重傷を負ったが、手当ても出来ないまま、後日亡くなった。

その日から毎日、ソ連兵と満州国軍の兵隊が入れ替わり立ち替わり、威嚇射撃しながら私たちの宿舎へ乱入して来た。そして手当たり次第に略奪し、女を漁った。

私たちは髪はざん切り、顔にはかまどの煤を塗りたくり、娘さんにも子どもを負わせて、かたまっていた。ソ連兵に狙われると、逃げる女の三倍ほどの大股で、ベルトをはずしながら追われるのだった。男は一か所に集められて閉じ込められていた。 夜は、現地人が襲って来て、まさしく阿鼻叫喚の日々が続いた。


「井筒紀久枝ホームページ」
http://www.balloon.ne.jp/453room/




               あわや戦車で宮内省の攻撃も

                        神戸真一
                       (当時:近衛騎兵連隊戦車中隊上等兵)
 
 儀状隊と言われた近衛騎兵連隊内に、○ゴ車六輌、九五式軽戦車十八輌、装甲兵車、大型貨物自動車六輌づつの装備と、隊長以下将校、下士官、兵の精鋭を、全国の戦車隊から集めて、昭和十九年七月に戦車中隊が創設されました。
 
 軍隊に戦略上機密事項が多いのは当然ですが、特にこの隊の存在は極秘でした。私たちには任務や使命等一際知らされませんでしたが、 同時期に本土決戦に備えて、長野県の松代の地下に、大本営が建設されているという噂がありました。そこへ、天皇陛下はじめ皇族方を○ゴ車にお載せして、護送するという事は公然の秘密でした。
 
 昭和二十年八月十五日未明、戦車全輌に弾薬を搭載しての出動命令が下りました。「兵を養うこと千日用は一朝にあり」今日かぎりの命の思いの瞬間でした。いわゆる宮城事件です。
 
 徹底抗戦を叫ぶ、陸軍省の中堅将校と近衛師団参謀が、その日の正午に予定された玉音放送を阻止するため、師団長を殺害して出した偽の命令だったのです。皇居に乱入した歩兵連隊のことは書物にも書かれ、また映画の「日本のいちばん長い日」に描かれもしましたが、なぜか、この命令を偽と見破った騎兵連隊長や、出動しなかった戦車隊のことは戦史に載ることはありませんでした。
 
 あれから半世紀、1999年9月、元近衛騎兵の連隊旗手だった下村氏が、某週刊誌にはじめて、「敗戦54年目の驚愕秘話」として事の真相を語られました。
 
 出動した戦車の行く先は皇居、搭載の戦車砲で玉音放送の録音盤の保管されている宮内省の建物もろとも爆破粉砕することだったそうです。
 
 歴史に「もし」はないといいますが、「もし」事が決行されていたら?
 
 詳細をお知りになりたい方は、http://www.nanmoku.ne.jp/~sinikanb/shusen.htmをご覧下さい。
 
 


                特攻終了の日
         
                            澤田喜久雄
                     (当時:陸軍・海上挺身第五戦隊) 

台湾南部の都市台南の海軍飛行場近くを流れる小さな河は、上流にある製糖工場から出る排水も運んでくるので、異臭を放っていた。時には「硫化水素もどき」の強い臭いも出していた。 ここ、大甲(新豊郡仁徳庄)には、河の堤に陸軍の極秘特攻兵器「○レ」が隠蔽され、其の近くには、私達海上挺身第5戦隊と整備隊(基地隊)が展開した基地があった。比島で優勢となった連合軍の次の攻撃は「台湾かそれとも沖縄か」と噂された頃である。

昭和20年3月下旬に連合軍の機動部隊が接近したある日、「出撃は今夜だ」 と告げられた。「遂に来たか」と、一気に緊迫した空気がみなぎった。 深夜に出撃するであろう私達は「○レ」を座礁させない為に水路を把握する河 口調査に出発した。 頭を掠める感じに「シュール、シュル、シュル」と砲弾が突走っている。 先日、長い坂道を軍歌を歌い、汗を拭きながら、たくましい姿で「山砲?」を運ぶ部隊を心強い思いで見たばかりだったが、あの陣地から実弾射撃をやっているのだ。 緊迫した思いが益々増幅されて、闘志が掻きたてられるのであった。

「○レ」の機関整備も完璧だ、後は爆雷の装着を待つだけとなった。 その日は、非常に速い点呼があった。 そして、下着を始め新品の軍服一式が配られて、夫れぞれが寝床の枕元に置い た。 「非常呼集が出たら、只今、支給された軍服を着けて集合」と告げられた。 夕食には、「攻撃の成功を祈念して」と、何回も乾杯が挙げられた。 「出撃の栄誉を讃えて」と出された赤飯も食べた。父母への遺書も書いた。 刻々と迫ってくる「非常呼集」を待つだけの寝床へ入ったのである。

早い目覚めで目に飛び込んだのは、夜明け直前の星空であった。 「沖縄にいる同期たち」は出撃しただろう。「君達は沖縄か俺達は比島らしい」と言って別れた、陸軍船舶兵特別幹部候補生隊で一緒だった戦友達の顔が浮かんだ。

7月に入ると沖縄線を教訓としたのだろうか、台湾新竹州「沙坑(竹東郡横山 庄)」と言う山間部へ移動した。 新竹の山間部には農業用だろうか「ため池」が散見されたが、其の一つに「○ レ」は運ばれて隠蔽されていた。 「○レ」は、海辺で集結し夜間の特攻攻撃を敢行するのだが、集結地までの水路調査にN少隊長を長とした調査班が8月16日に出発する事になっていた。

昭和20年8月15日、朝食を終え、雑務を終了した私達は、その調査班の 「無事、任務の完遂を祈念する壮行会」の準備に取りかかった。 暑い太陽が照りつける道を歩いていると、現地の人々に落ち着きが無いように見え、頭を寄せて話し合っているのが、度々目に入る。「何かしら変だ」と感 じて居たとき、”ラジオ”を聞いている人を見つけた。( 「何か変わったニュースが入っているのか」と尋ねると、「日本が降伏したら しい」と話してくれた。

一刻も早く戦隊へ帰らねばならない。 駆け足で帰還した基地は案外に平静であった。何時間経っただろうか、訓辞 に立った戦隊長は「如何なる事態となろうとも、自分と行動を共にして貰いたい」と強調して訓辞を結ばれた。

日暮れが近付いた頃、「ため池」周辺の監視が増強された。 携帯する拳銃には弾丸を装填した即戦の装備だった。しかし、現地の人々の 暴徒化の懸念が無いと確認されたのだろうか、1時間位で非常態勢は解除された。 緊張した思いの監視の任務から解放されたので、暫時、夜の空を見つめて時を 過ごした。「戦争の終結は特攻の終了だろうか」、「これから、寄せてくる苦労はどんな苦労だろうか」、「父母姉弟は元気だろうか」等々の思いが駆けめ ぐった。

20歳7ヶ月だった私の8月15日である。


「悠路の散歩」
http://homepage3.nifty.com/sanpo1080/



            腹切りを許してもらった

                              須山栄三
                        (当時:海軍・蛟竜特攻隊員)

八月十五日、全員集合がかかった。とうとう電信の者の言っていた事が本当になったのだ。 信じられなかった。 何の為に、今まで頑張って来たのだ、と思った。  

その夜、戸泉大尉が、「須山、いいものを見せてやろう」と言って、大尉の日記を見せられた。 そこには、私が大浦突撃隊に始めて来た日の私と大尉との会話が書かれていた。

「須山、日本は勝つと思うか」 「ハイ、勝つのはあたりまえです」 「うん、もし負けたらどうする」 「負けるまでは生きては居りません」 「イヤ、もし生きていたらどうする」 「生きていたら腹を切ります」 

大尉はただ笑っていた。

此れは私のHPにも書いてあります。
 
腹を斬らなかった代わりに基地での残務整理、そして復員輸送業務に協力致しました。


「KORYU 5」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/tokusen/




      原爆負傷者収容所で聞いた重大放送
                          
                          佐野博敏
                      (当時:工業専門学校1年生)

 八月十五日午後の広島駅は、原爆負傷者や行方不明の家族を探す群集で混雑していた。

 夏の太陽が、すでに焼け野が原となった各所で焼かれる死臭を、一層息苦しく照りつけている。かろうじて動き始めた鉄道に乗り込むために、人々は争ってうごめいていた。

 正午に重大放送があるとのことであったが、原爆負傷者収容所となった、郊外の小学校の講堂で聞いたラジオは、感度も悪く軍国主義で育てられた十七歳の私には、とても理解できないものであった。

 「無条件降伏」とか「敗戦」という断定的な表現はなく、それでいて勝利とは反対の局面を迎えたくらいしか分からない。

 同級生に出くわしたのはそのような状態で、駅前でもみあっていたときであった。

 「やあ、負けてしもうたな」

 Mは、あっさりといってのけた。そうか、やっぱりあの放送はそういう内容だったのかと、呆然とした顔にMは晴々とつけ加えた。

 「これで、俺たちはもう心配しなくていいぜ」  私は頭をなぐられたくらい驚いた。苦戦よりも敗戦、敗戦よりも占領されることの方が、生活しやすいとは到底考え及ばなかったのである。

 重傷の母を探し出し、半年に及んだ原爆後遺症からも回復し始めたころ、無傷で元気に活躍していると耳にしていたMの死を知った。

 死因は典型的な二次放射能障害による白血病とのことであった。

 私などよりはるかに戦争の本質を見抜いていたことを初めてさらけだして、彼の未来への大きな期待をこめた晴々としたその表情と声が、真夏の太陽のもとで毎年必ず思い出されるのである。

(後記)  このように元気で無傷の人が次々に亡くなった。母を探す私を励ましてくれた友人も、無傷であるがゆえに、懸命にひとを励まし助けて走り回った挙げ句に、二次放射能障害に襲われて斃れたのである。善意の者が、善意の行為のゆえに、犠牲になった。どこに救いを求めたらよいのであろうか。


この文章は、佐野さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「ようこそ ! H & T の ホーム ページ へ‥」
http://www.parkcity.ne.jp/~ht-sano/index.html




                平和の実感

                          新妻英雄

                        (当時:工業専門学校1年生)

そのころ私は勤労動員で杉並区の久我山の工場で旋盤工で働いていた。毎日空襲警報がでて退避したが、昼間の疲れでたいてい舗装道路の上に寝てしまった。その頃は食事はトウモロコシが米粒のなかに大分入りこみ、トウモロコシの飯に近かった。ために消化不良を起こし大半が下痢をしていた。その上舗装道路に寝たため腹を冷やしてしまい、いっそう下痢がひどくなっていた。しかし、疲れていたのとどうでもなれと、むしあつい防空壕に入らず道路に寝たわけである。

例の8月15日もそんな日のつづきであった。正午重大放送があるというので制服を着て寮の前で放送を聞いた。始めはよくわからなかったが半ばぐらいから日本が負けたということが分かった。誰かが泣きだしたので皆が釣られて泣き出した。

あれは何の涙だったろうか。解散したあとみんな虚脱状態で涙も涸れた。その日も暮れて食事をしたあと私は西荻窪の駅まで歩いてみた。町は意外と静かであった。所々の家で道路、庭掃除をしているのが目に付いた。こんな風景は近ごろ見たこともなかった。垣根越しに家の中の暗幕を取り外しているのも見受けられた。

そのうちに夜のとばりが下り始めたとき、あたりの街燈が光りだし、家から明るい光が漏れ始めた。今までこんな明るさがあるのを忘れていた。途端に私は嬉しくなりだした。「これが戦争が無くなったということなんだ。」「これが平和というものなんだ」と。今までの暗い気持ちはこの時吹き飛んでしまった。

 欣びいさんで寮に帰ったら都内に出かけた友人が「断固戦争継続、あくまで戦う」という伝単を持ってきた。これは一部の軍人のあがきであったと後で知った。このとき「まだやるのかよー」とがっかりしてしまった。


「新妻英雄絵画展」
http://www.geocities.jp/tniizuma/



          泣いても泣き切れないものがあった

                          鈴木善弥
                          (当時:中学校4年生)

 私は昭和19年10月、山梨県甲府中学3年生在学中、学徒動員令により、約300名の同級生と共に、横浜市戸塚区にあった第一海軍燃料廠(通称大船の燃料廠)に動員されました。そこでは、燃料や潤滑油の製造/実験/研究の他、油タンクを空襲から守るための防油堤工事などを作業員と一緒にやりました。

 当時、学校から日記を書くことが義務づけられ、敗戦による帰郷までの10ヶ月余の日記が手元に残されました。これを、ワープロの手作り製本で「学徒動員大船日記」として5年前に刊行しましたが、この中から、昭和20年8月15日と16日の日記を抜粋して記します。 仮名づかい、誤字などは原文のままです。

八月十五日 水曜日 晴

 作業割の時、前田大尉より正午陛下御親ら御放送になる旨御話がある。一同さっと緊張味がみなぎった。

 やがて正午になり総員庁舎前に集合、御放送を聞く。実に感激的な一瞬だった。最後の君が代が終る迄は只茫然として居た。しかし、詔書の意味が朧気ながらも分かった時の驚愕は甚だしかった。全身の血が逆流し、放送員の一言半句も聞き洩らすまいと全神経が放送員の声に集中した。長い放送は終った。しかし、之は夢としか思へなかった。到底あり得ない事が事実となって現れたのだから夢と思って当然だったが、それも夕方になって段々夢でなくなって来た。総務部長より重要書類の焼却を命令されたからだ。

  工員一同事務室に上がり、重要書類の整理に当たった。今迄苦心して研究した書類等も全部焼かねばならなかった。自分等が昨年十月以来動員に来たのは何の為か。幾多の勇士が特攻隊となって死んで行ったのは何故か。勿論勝つ為だ。彼等は皆必勝を信じて死んで行ったのだ。其れなのに何たる事か。全く泣いても泣き切れないものがあった。

八月十六日 木曜日 晴

 今日は最早出勤するのが張り合いが無かった。 工場では、今迄製造せる製品を全部混合して使用出来ない様にする作業を行ふ。皆断腸の思ひで製品をつめた。

 午後B29が侵入して来たが我が制空部隊が常より増して猛烈な攻撃を行った。其の我が海軍機は伝単を散布した。其れには「天皇の軍隊に降伏無し。我等海軍航空隊は必勝を信じて以後戦争を続行する」とあった。之を見て血の躍るのを覚えた。日本人である以上之が当然なのだ。仮令、敵が如何に科学戦でやって来やうとも、最後の一兵迄戦い抜いてこそ日本人としての本分が全うせられるのだ。悠久三千年の歴史はここで亡びるとも、日本と云ふ名は、世界戦史に燦然と輝く事であらう。只痛憤と無念で夜もろくろく眠れなかった。


  日記には熱烈な軍国少年ぶりが表れていて、いかにして天皇に忠実な臣民が作られたかを振返って、当時の教育に憤りを感じる一方、沖縄で玉砕した牛島中将の訣別の辞を、涙ながらに日記に書写した気持や、「悠久三千年の歴史は滅びても、日本の名は世界戦史に燦然と輝くであろう。」と書いた純真な気持などは否定したくないという複雑な心境です。


「ぜんやの広場」
http://www.hpmix.com/home/zenya/homepage2/



        終戦のラジオ放送は雑音で聞こえなかった
           
                       大西吉雄

                          (当時:中学校2年生) 

 教育は恐ろしい。19〜20年に入り、南太平洋の島々での玉砕!特攻隊の出撃!などと、不利な戦況だとは理解していても、「日本は決して負けない」と信じていた。そのあと、すぐ第2次勤労動員令が来た。大阪砲兵工廠の枚方支廠だ。いま香里にある大団地の広大な敷地だった。空襲警報で防空壕まで5分ぐらい走るかの距離に思えた。

 今度は、旋盤を駆使して迫撃砲弾を造る職場。旋盤で削られた熱い屑が眼に当たるが、防塵メガネなどない。徴用工員さんと同じ職務だが、歩留まりは明らかに差があった。働いているだけで、コスト効果は低かったことだろう。8月15日正午に集合して聞いたラジオ放送は雑音でよく聞こえなかった。帰途、徴用工の方とわれわれは激しく諍いをした。

 京橋駅ガード下は瓦礫と非戦闘員の死体が重ねられていた。省線(城東線=いまの大阪環状線)の京橋駅から森之宮駅まで線路を歩いた。途中何ヶ所も曲折したレールが架線を越えていた。長い鉄橋の枕木を注意しながら踏み渡った。玉造駅からやっと省線に乗れた。阪和線鶴ヶ丘駅へは滅多に迎えに来ない母が来ていた。きっと何時間も待っていてくれたのであろう。6月1日の大空襲後、私が小学校へ避難していた父母を探しに入ってから、僅か2ヵ月半だ。

 早生まれで満13歳5ヵ月。身長はいまの小学5年生ぐらいだろうか? 2度目の勤労動員へ行き旋盤で砲弾を造っていたとは・・・。時代差のあまりの大きさ、教育の内容差、栄養の差、権利と義務意識、自由度の有無など。比較できない時代差だと思うが。現代は、モノの飽和はできたが、感謝のココロが欠けた時代であることだけは間違いない。私利私欲に走る政治家たち、手前勝手な官僚らでは、日本の偏狭で歪んだ構造を改造することは出来ないだろう。変人でよろしい!小泉首相に「日本の構造を変えるリーダーシップを発揮して欲しい。経済構造も、政治構造も、そして何よりも教育構造を。

 太平洋戦争は、あまりにも大きな事件だった。戦中の指導者の是非はともかく、私利私欲を捨てて国のために命を捨てられた多くの人々へ感謝するココロだけは、たとえ戦争を知らなくても、いま生きている人にも理解して欲しい、と私は希う。

 まして、戦中戦後を幸運にも生きつづけて来た私は、感謝のココロだけは保持するつもりだ。



                   誰も責任をとらなかった

                              片山節男

                                 (当時:中学校1年生)

その日、旧制中学1年生の私たちは学校のグランドでもっこを担いで土運びをしていた。暑くジリジリと太陽がグランドに容赦なく照りつけている。2年生以上は勤労奉仕と称して軍需工場に出かけており、学校で土運びをしているのは1年生だけだった。

教師が「昼に天皇陛下による重大な発表があるので下校しないように」と伝えに来た。なにかひどく緊張した面もちだったように思う。

昼、グランドにラジオが運ばれた。雑音の多いラジオからは、くぐもった天皇の声は重苦しく、何を言っているのかまるでわからなかった。放送が終わって国粋主義者の校長が「畏れおおくも上ご一人(天皇)からは頑張れとお言葉を賜った。神風は必ず吹く。これからも断固として戦うのみだ」と拳を振り上げ、興奮した口調で演説をしたので、まさか戦争に負けたなどとは知ることができなかった。

この校長は「もし負けるようなことがあれば、腹を切ってお詫びする」というようなことも口走っていた。これは妙なことである。当時、戦争に負けるなどということを仮定であっても口にすることは許されなかったからだ。

やはり散開後の空気ではどうやら戦争を継続するのではなく、戦争に負けたので米軍が占領するかもしれないという話がひろがった。

軍国主義教育を受けてきた私たちには、それがどういうことなのか理解できなかった。どの大人からも「落ち着くように」などという声はなく、みんなが押し黙っているように見えた。長い夏の一日だった。

戦後、教師達は民主主義を声高に語った。きのうまでの教育を詫びる教師はいなかった。戦意を鼓舞するようなことを言ってきた教師ほど、態度が激変していた。

その後しばらくしてわかったことは、校長が生徒への配給物資を横流しをしていたことだった。全校で生徒ストライキがおこり、校長は辞職に追い込まれた。




       すいとんも 数倍美味しく食べられた

                         外丸  繁
                         (当時:国民学校6年生)

昭和20年3月9日東京大空襲で浅草の家は焼失、神奈川県大磯に疎開していました。

最近は夕べの食事は何を食べたかな?思い出せないことがちょくちょくですが以下の事 は鮮明に覚えております。

暑い暑い日です。男性的な入道雲が群青色の空からこちらを睨んでいるよう。 蝉が油を炒めるようにジーッン、ジーンと、夏休みのこと、兄弟たちと家で遊んでいました。お昼に重大放送があるとのこと。父母とお膳の上に用意されたラジオで聴きました。 6年生の私には内容はよく判りません。ただ「耐え難きを耐え、忍びがたき・・・」この辺り が判る程度で、親の顔色を覗き見て落胆して行く様子で戦争に負けたというより戦争が 終わったという実感が強かったと思いました。

その夕飯からは灯火管制で黒い布で覆われた照明も明るい部屋になり代用食のすいとんも 今までよりきっと数倍美味しく食べられたんではなかったでしょうか?

どなたかも書いておられますが「これでは勝てないなあ」の実感を以下に記します。

在籍していました大磯国民小学校はJR大磯駅から西に2,3分の位置でした。当時、校舎 の半分は兵舎として兵隊が使用半分を小学生が同居の形。校庭には無数の穴を掘り たこつぼ(防空壕)があって艦載機のグラマン、やロッキードP38がやって来ると小銃で ダン!ダン打っていましたが当たった所は見たことがありません。兵隊さんの主な仕事は裏山にスコップ、つるはしで防空壕堀だったようです。

翌年春から中学生(まだ旧制中学)で東京の家が出来るまで大磯から都立三中(現在の両国高校、錦糸町)まで通いました。若い方には信じられない光景かと思いますが、ドアなんてない列車で、乗り降りは窓からの出入り、または電気機関車のデッキや連結器にしがみついての通学です。東京に向かう折り、横浜を出ると左側が進駐軍の軍用車の駐車場です。その数と言いましたら 鶴見くらいまであったんでしょうか?何千、いや何万台のトラックやらジープ、トラクターの数です。 大磯の校舎に同居していた兵隊さんのスコップ姿と比べ「うあー、これじゃ勝てっこないなあ」。

今でも東海道線でそこを通る度に思い出します。勿論現在は民家、ビルなどが建ち並びその片鱗 すら見あたりませんが・・・・・・・・・・・。


「まるさんのHomePage」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tomaru/



    えらい人の言うことが信じられなくなった日

                                  西羽 潔
                             (当時:国民学校6年生)

  その日は、空も晴れ上がって、暑い日でした。

 朝からラジオは通常の番組をすべて中止して、「正午から天皇陛下おんみずから放送されるので、拝聴するように」といったことを繰り返していました。ちょうど夏休みで家にいた私は、興奮した気持ちを抑えながら、その時を待ちました。幼いときから軍国主義にマインド・コントロールされていた“銃後の少国民”は、きっと「いよいよ決戦の時が来た。爾(なんじ)臣民一同斃(たお)れるまで戦え」のお言葉だと信じていました。

 放送が始まりましたが、古いラジオで聞く、聞き慣れない“玉音”はさっぱり分かりません。もっとも今改めて読み返してみると、例え明瞭な音声で聞いても、11歳の子どもが簡単に理解できる内容ではありません。

 いっしょに聞いていた、祖母、母、10歳年上の従姉も、ありがたいお経を聞いたような顔をしていました。皆てっきり督励のお言葉だと思っていたようです。

 しかしそれにしてはどうもおかしいと、何となく違和感を感じていた私と従姉は、続くアナウンサーの言葉に耳を傾けました。 「忍びがたきを忍び」、「共同宣言を受諾」といった言葉が耳に入りま した。それは、「神州不滅。最後の一員まで戦う」と信じ込まされていた私には、とても信じられない言葉でした。頭の中が真っ白になりました。そして従姉の蒼白な顔色を見て、日本が降伏したことを悟りました。

 日本の降伏が分かった瞬間、次に私の頭に浮かんだのは、何かで読むか聞くかしたあることでした。それは、連合軍に占領されたイタリアの子どもたちが、親から引き離されて、集団でどこかへ連れていかれた、というものでした。本当にそういう事実があったのかどうかは疑問ですが、なぜか子ども心に頭に残っていたようです。自分たちもそういう目に遭わされるのかと、不安になりました。しかし、母の顔を見ると、ふだんと変わらなかったので、ほっとしたことを覚えています。

 その後、母と二人で電車に乗って、米の買出しに行きました。電車の乗客の多くは疲れて居眠りをしていました。それを見て、母はポツリと言いました。 「これでは敗けるはずやなあ」。

 それまで母から、戦争のことを云々する言葉を聞いたことがありませんでした。この一言で、母が戦争をどのように見ていたかが、初めて子ども心にも理解できました。母の血を分けた甥(すなわち私の従兄)が二人、学徒出陣で出征して、戦死していたのです。どちらも伯父たちの一人息子でした。

 この日から、私はえらい人の言うことが素直に受け取れない少年になりました。


「シニア夫婦の手づくり海外旅行記」
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/



          あの戦争は何だったのか
                         
                          杉浦正健
                                (当時:国民学校5年生)

 あの日は、小学校五年生の夏休み最中の、暑い一日だった。前日から、正午に天皇陛下の玉音放送がある、との予告があった。天皇は神であり、陛下のお姿やお声を直接、見聞きすることが考えられなかった時代のことである。重大なことが陛下ご自身から語られる、何事だろう、と世間はざわめき立った。

 夏休みに入る直前の六月末、岡崎は大空襲を受けた。夜半すぎ、空襲警報のサイレンでたたき起こされた時には、東の空は真っ赤に燃え上がっていた。郷東の田植えが終わったばかりの水田も火の海だった。降りしきる火のかたまりからわら葺きの家を守るため、村人は大わらわとなった。翌朝、郷東の田んぼは、焼夷弾で、月面のような穴ぼこだらけで、大半の稲が焼け焦げているのに、村人たちは呆然となった。

 村の神社の境内は、田んぼから抜き取られ運ばれた焼夷弾の残骸の山が築かれた。初めて目にする正六面体の鋼鉄製弾体の山を前にして、この一群の投下がもう千メートル西へずれたら、集落は丸焼けになったに違いないと背筋が寒くなると同時に、日本中がこのような目に遭っていって、本当にこの戦争が勝てるのか、という疑念が湧き上がるのを、どうしようもなかった。

 八月に入って、広島と長崎に大型爆弾が投下され、大きな被害が出たと報道されたが、その頃から、空襲警報がめっきり減ってきたなと感じていた矢先の玉音放送の予告であった。当時は、ラジオのある家は多くはなかった。わが家には、あまり性能はよくないが、ラジオがあったので、隣近所から聞きに来る人もいた。文字通り、初めて耳にする天皇陛下の肉声は、ラジオの性能の悪いこともあって雑音が多く、よく聞き取れなかった。「耐え難きを耐え」とか、「万世のため太平を」とか、きれぎれに耳に入るお言葉の端々から、戦いが終わったと察しられた。両親や祖母ら大人の人々は意外と平静だった。祖母から、戦争は負けに終わったと聞かされた軍国少年は、絶対にこの戦、負けることはないと教えられ信じ込んでいただけに、頭の中が真っ白になったのを、今でも昨日のように想い出す。


この文章は、杉浦さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「衆議院議員  杉浦正健」
http://www.seiken-s.jp/


 
             新聞を切り抜いた「終戦詔書」

                              西羽 晃  
                          (当時:国民学校3年生)

 当時父は小さいながらも、神戸で工場を経営していた。昭和19年7月に家族は六甲山を越えた所に疎開した。翌年の神戸大空襲の時はすさまじい爆音が聞こえ、山の向こうが明るく燃えているのを、眺めていた。その時に工場が戦火で焼失した。それでも私達子どもは、神風が吹いて、日本は必ず勝つと信じていた。

 昭和20年8月10日過ぎの頃、祖父が「日本も負けるかもしれない」と言っているのを、私は耳にして、「そんなことあるもんか」と思っていた。ところが8月15日の敗戦となった。その日のことは、兄の西羽潔が書いている通りである。最初はなんのことやら、さっぱり判らなかったが、兄がラジオにかじりついて、やっと負けたことが判った。

 夏休みなのに、翌日は登校した。その頃は学校の講堂は軍隊の食料品が詰め込まれいて使えなかった。運動場も半分は薩摩芋の畑になっていた。その運動場に全校生が集められた。校長先生が小さな紙を取り出し、おもむろに読まれた。最後は、いつも聞かされた「教育勅語」と同じく「御名御璽」で結ばれていが、新聞を切り抜いた「終戦詔書」はまことに御粗末であった。

 戦後になって、それまで軍国主義を煽っていた先生が、急に民主主義を唱え出したのには、違和感を感じた。開戦にいたる経過、戦時中の指導、敗戦処理など、日本の指導者たちの執った態度は、近隣諸国との間に、戦後55年経った現在にも尾を引いていると私は思っている。



                 終 戦

                             保科好信
                          (当時:国民学校2年生)

湘南の鵠沼では,屋根を掠めての敵機の機銃掃射

におびえていた。

空襲警報のたびに電車が止まり,草むらに伏せる

毎日の通学だった。

敵前上陸を逃れて信州に疎開した。

「ちょっと待ってろ!」

同じ集落の子供5〜6人,千曲川で泳いで昼食に帰

る途中だった。

上級生が他人の家の垣根にもぐりこんでいった。

「負けたよ」

玉音放送を聞いてきたのだった。

当時,小学校二年生では理解のしようがなかった。

なのに,ここだけは記憶が鮮明に残っている。

数日後,それまでと変わらず千曲川の河原で甲羅

干しをしていた。

上空を日本の戦闘機が,羽をゆすって超低空飛行

を繰り返した。

みんなで一生懸命に手を振って応えた。

乗組員が振っていた白い布(ネッカチーフ)が印象

的だった。

翌日は登校日だった。

学校では浅間山の噴火口に突っ込んで自爆した

戦闘機の話題で持ちきりだった。

白茶けた暑い夏だった。


この文章は、保科さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「保科さんの日曜随筆コーナー」
http://home.att.ne.jp/blue/atelier/Hoshina-san/index.htm



          私の8月15日の思い出

                            岡村京子
                          (当時:国民学校1年生) 

ある日、浮腫んだ顔の軍服姿の父が家族の顔を懐かしげに見て立っていた。病気が理由で終戦を待たずに帰還できたという。

当時七歳の私の記憶は乏しく、天皇陛下の玉音放送を疎開先の小学校の校庭に整列して頭を垂れて神妙に聞いたのがそうだった、と後で教えられて分かった。

当時の生活を幼稚園児だった私のたどたどしい記憶から拾って書いてみようと思う。私の父は大阪の町で塗装工場を営みながら妻子5人と幸せに暮らしていた。

平和な生活の中にいつしか空襲警報が鳴り響き、その度に日頃の訓練もよろしく一斉に防空頭巾をかぶり、決められた防空壕に身を潜める、「空襲警報解除!」の声でほっとして防空壕から出る。

また隣保の人たちが横一列に並び、きびきびした連携でバケツの水を運ぶ、防水訓練を覚えている。そうこうしている内に日増しに空襲が激しくなってきた、その度に家の電球は黒く塗られ、カバーをかけて、外から目立たなくしていた、どの家の前にも備えられた防水槽には一杯の水が張られていた。

とうとう、くるときが来てわが町にも激しいB29の襲撃がやってきた、ヒュゥーッパラパラドカーン、今なら綺麗な花火を連想するだろうが、当時は、すさましい焼夷弾と火の粉がみるみる家並みを焼き尽くしていく。

今までの訓練のバケツの手渡しや、消防車も何の役にも立たず、防空壕にも入っていられないほどの激しい火の手の中で恐怖に震えていた。父や兄は消防士で出ていたために我が家の火を知る由も無く、当時35歳の母に3人の子供を連れて避難場所まで行くように指示していた。

仕方なく、防空頭巾に水を被って、隣保の班長さんの誘導で避難所に向かって歩いた、突然母が「大事なものを忘れたから取りに行く」と言って燃え盛る炎の中に行ってしまった。

その時は周囲の状況が地獄の絵巻物のように恐ろしいものだった、前を歩く人が急に弾に当たって倒れる、皆は構わず避難場所に急ぐ、また電車道には投爆によって出来た大きな穴の中に、電車と人が丸焦げになって、めり込んでいる、倒れた人が担架で運ばれて行く、無事な人は避難場所へ急ぐ。

燃え盛る家並みが崩れて倒れる、その火の粉を除けながら、多分私と弟、手を引く姉も泣きながら歩いていたように記憶している。

暫くすると母の子供の名前を呼ぶ声が聞こえてきたので振り向くと、防空頭巾やもんぺに、こげ穴を作り、何も持たず、すすけた顔の母がいた。

後で聞いた話では、大事なものとは消防士で留守にしていた父が纏めていた貴重品入りの大きなリュックだったとか、それが無いために後から父母は苦労することになる。

気がつくと、広い校庭に大勢の人が集まっていた、親戚の人や、消防を済ませたというよりも、消防を諦めた父や兄の顔があった、そこでほっとした私は父の背中におぶわれて眠ったのか、その後のことは断片的にしか思い出せない。

そこから、父母と叔父伯母たちは疎開先に翻弄する、やっと遠い親戚の母屋に身を寄せ合って2年ほど暮らした、学校にも行かせて貰った。父母も本当に有難い事と感謝していた。

ものは無くても、遊び盛りの私や弟は、畑仕事を手伝いながら近所の子供と野や畑、山やお寺の境内で思い切り遊んでいた。遥か遠い空が赤く燃え、焼夷弾の音が響くのを、じっと、思い出しながら見ていた。

暫く経って終戦となり、父が戻り、家族の住居を東方西走して探し当て移住することになる。そこから私たちの貧しいながらも家族だけの楽しい生活が始まる。

それでも母は85歳で亡くなるまで浮かぬ顔の毎日だった、弟の遺骨が石ころになって帰還してはいるが、出兵先も死亡先も不明の侭、遺品も何一つとして戻っていない、母は本当の意味で終結を見ていなかったのです。

二度とあってはならない戦争の悲劇、21世紀は夢と希望の溢れることを、孫たちも次の世代も平和な世界で暮らせるように切望するばかりです。

「すーみんの部屋へようこそ」
http://www.jttk.zaq.ne.jp/baabd507/yokoso/



             逃避行のさなか

                          徳重義彦

                                   (当時:1歳)

記憶にとどめませんが、昭和20年8月15日、その日は私ども母と子が奉天から平壌に向け、貨車にのり、線路を歩く逃避行のさなかにありました。その時、母は二十一歳、私は一歳半、弟はゼロ歳でした。

  ※奉天:現在の中国瀋陽市、※平壌:現在の北朝鮮ピヨンヤン市

奉天で我々を見送った軍人であった父は、その後にソ連軍に連行されシベリアの奥地へ、そして翌年カザフ共和国で亡くなくなりました。

昭和24年、父の死を知らされた母は次の歌を詠んでいます。

  〇 今日の日を かねて覚悟は しておれど
      つきぬ想いひに 胸があふるゝ

  〇 敗戦の しぶきを受けて 君が身は
      はかなく去りぬ 異郷の地にて

  〇 明け暮れを 無邪気に遊ぶ いとし子に
      父の知らせを 如何につたへん

戦争を背負って生きた母は昨年末にその生涯を閉じました。タンスに次の歌が残されておりました。

  〇 亡き人の 来まして吾を慰むる
      良かし事のみ 想ひ出されて

  〇 独り居て 天涯孤独と思ひなば
      人にすがらず 神のみむねに

  〇 千萬の めぐみの中に 生かされて
      吾(われ)如何にしてか こたへまつらん

戦争を忘れ得なかった母の生き方を見て、戦争は忘れるべきできごと、まして、その苦悩を次の世代に背負わせてはいけない、それぞれの世代はそれぞれの知恵で平和を維持できるはず、と思います。また、人の命の短さにも世代交代の意思が込められているように思えます。