ソ連戦車に体当たりを覚悟していた

                           石原 昭
                          (当時:中学校3年生)
 
 昭和二十年八月十五日、その日大連の空は、朝から雲一つなく晴れわたり、日中の暑さを思わせる青空が広がっていました。正午に重大放送があると告げられていましたが、一週間前には、ソ満国境を破って満州平野に雪崩れ込んで来たソ連軍の一斉攻撃が報じられており、そのニュースの方が遙かに大きな比重をもって、私達に不安と興奮をもたらしていたのです。(チチハル中学報国隊は、全員敵戦車に突入して玉砕した)などという話しも伝わり、「大連三中報国隊第三中隊第一小隊」として編成されている私達にとって、単なる噂として、他人事で済まされることではありませんでした。

 「重大放送」は、どうせいつもの戦意昂揚の演説に違いない。それよりも、工場に来る途中で目撃した、ソ連総領事館前を固める物々しい武装警官達の話や、いずれは相まみえるであろうソ連戦車の噂で持ちきりでした。特に、ナチスドイツの「タイガー」と呼ばれる重戦車と互角に戦ったと言われるソ連軍戦車は、関心の的であり話題の中心となりました。

 「タイガー戦車」は日本でも屡々ニュース映画に登場しました。巨木を押し倒しビルの壁を突き破って進む雄姿に、頼もしき友軍としてどれほどの信頼と期待感をもって、拍手を送ったことでしょうか。その「タイガー」とわたり合って、勝利をものにしたソ連戦車です。少なくとも「タイガー」に勝るとも劣らない重武装が施され、それに匹敵するほどに、或いはそれ以上に、大型且つ鞏固であるに違いありません。

 押し寄せるソ連の重戦車群を目の前にして、チチハル中学の彼等は、胸に抱いた爆薬とともに、どんな思いで蛸壺に身を潜めていたのだろうか。 蛸壺から跳び出した彼等が、キャタピラーの下に差し込んだ二十五キロの爆薬は、敵戦車を破壊することが出来たのだろうか。炸裂する爆薬とともに我が身が飛び散る感覚は……??

 旬日を経ずしてやがては我が身に襲いかかってくるであろう運命の結末については、どれほど語り合おうとも話し尽くしたということはありませんでした。話せば話すほど、いやが上にも興奮し戦慄に身を震わせたのです。「重大放送」など話の種にもなりませんでした。

 「報国隊」「蛸壺」などという言葉は当世の人達には耳慣れない単語かもしれません。昭和十九年八月二三日、 「学徒動員令」「学徒勤労令施行規則」が公布され、雨の神宮グランドで学徒出陣式が行われたことは、戦争と平和の問題が問われるたびにしばしば報道されますが、この時、同じく「学徒動員令」施行の一環として中学校以上の各校に「学校報国隊」が組織されました。各学年が一個中隊、学級が一個小隊として編成されていました。五学年が第一中隊、四学年第二中隊、三学年が第三中隊となり、従って三年一組は第三中隊第一小隊となります。二、一学年がそれぞれ第四、第五中隊となったかどうかは定かではありません。主たる任務は、戦闘部隊が出動した後の後方警備・治安維持で、招集が令された時には直ちに寝具・身回品と木銃を携帯して指定場所に集合するものとされていました。

 私達大連三中第三中隊第一小隊は、市内の千代田町付近にあった航空機部品工場に動員されていた関係から、空襲警報発令時には最寄りの警察署(消防署であったか記憶がはっきりしません)に出頭するよう、また特に別命のある場合は指定場所に集合するよう予令を受けていましたが、幸いにして終戦までこれらの出動命令が発令されることはありませんでした。

「チチハル中学報国隊玉砕」のニュースは風の便りに伝わってきたもので、事の真偽は未だに定かではありません。押し寄せる大軍を目の前にした悲愴な敗戦悲話の一つか、はたまた一つの國が崩壊しようとしている時に生れる数多の誤聞の類にすぎないのでしょうか。何時の日か当時のチチハルを体験された方に、当時の状況をお聞きしたいものと思いつつ半世紀を超える時が過ぎてしまいました。

 しかし、いつの世も、戦いの終末を彩るものは、こうした戦闘力の殆どない後方部隊、或いは非戦闘員達の血の色であることに例外はありません。

 「蛸壺」と言うのは、いわば一人用の塹壕です。直径約一米、深さ1米半ほどの円筒形壕で、この中に兵士一名が武器を持って身を潜める。つまり、径は兵士が武器を持って身をかがめるに大きくなく小さくなく、深さは一挙動で跳び出せる程度に掘るのです。従来の溝式塹壕に比較して隠蔽性に優れ、小兵力で縦深陣地を構築することが出来る、敵火力に対する耐応力に優れる・・・など、近代戦に適していると言うことで第二次大戦からは専ら散兵線で掘られることになったようです。

 この「蛸壺」に対戦車爆薬を胸に抱いて潜み、敵戦車を待ちます。胸に抱かれた爆薬は二十五キロ、接続された信管の栓はズボンのバンドにしっかりと挟む。接近してきた敵戦車群が、「蛸壺陣地」を通過するのを待って、爆薬をキャタピラーの下に差し出す。バンドに固定された信管の栓が抜かれて発火し、爆薬は炸裂する。言うなれば対戦車特攻です。

 以上の話を聞かされたのは、昭和十九年(一九四四年)も秋、既にサイパンは陥落し、戦局も敗戦の道を辿り始めた二年生の二学期でした。軍事教練中の休憩時に、教官を囲んでの雑談の中でのことです。当時は中学校以上の各校には一乃至二名の現役将校が配属され、週に三-四時間、銃剣術を始め初歩の戦闘訓練を含む軍事的な技術・精神教育が行われていましたが、二年生になってからの軍事教官は、吉岡という少尉でした。病後の療養勤務として赴任してきたと言う彼は、いかにも良家のお坊ちゃんと言った感じの好青年で、それまでの軍事教官のイメージとはおよそかけ離れ、私達はまるで兄に甘えるような気軽さでまとわりついたものでした。彼もまた従来の配属将校とはうって変わって、私達には弟、或いはかわいい後輩達を「いとおしむ」といった雰囲気で接してくださったのです。「いつかはお前達も・・・」と言って話してくださったのが、この「蛸壺」と「対戦車特攻」の話でした。吉岡少尉殿の「いつかは」と言はれた時機が、一年足らずの内に現実のものとして我が身に迫ってこようとは思いもしませんでしたが、あと一月、ソ連軍の進攻速度から推してあと半月も戦争が続けば、私達の体もあるいはソ連軍戦車の下に飛び散っていたかもしれません。

 彼の優しさは、年端も行かない子供達が、いずれ近い将来に、爆薬を抱いて敵戦車のキャタピラーの下に飛び込んで行かなければならない、その姿を思い描いてのことであったのかもしれません。しかし、話を聞かされたときには、そんな感傷的な心理分析など出来ようはずもなく、二十五キロの爆薬の重さが実感できずに、「一人一殺、必ずや敵戦車を仕留めて・・」と奮い立ったものでしたが、現実的には十四、五歳の少年の細腕で、果たして二十五キロもの重量を抱えて蛸壺から跳びだし、信管の栓が抜けるほどに体の前に差し出せるものかどうかには思い至りませんでした。

 後年、海上警備隊術科学校に在籍中、様々な形の特攻隊生き残りの人達に出会いました。小型潜水艇「回天」、「蛟竜」のほかに、爆薬を背負って潜水、海中に潜んで敵上陸用舟艇の船底に取り憑いて爆破する「伏竜」、合板製高速ボートの艇首に爆薬を装着して敵艦に体当たりする「震洋」・・等々。

 私たちを待ち受けていたと思われるこの対戦車特攻は何と名付けられていたのでしょう。

 昭和二十年当時、私の在学した大連第三中学校三年一組は、飛行機部品を造る、或るダイカスト鋳物工場に動員されていました。工場は、大連市西部の朝日広場から、寺児溝に向かう千代田町付近にありました。五月末まで、静浦海岸や周水子飛行場で予科練入隊準備としてグライダー訓練を受けていた私は、六月はじめに級友達と合流し、部品作りに精出すこととなりました。

 作業は、上下に分かれた金属鋳型に、傍らの電気炉から、溶けたぎっているアルミニューム合金の湯を鉄柄杓で汲み上げて、鋳型の中心にある湯溜まりに注ぎ込み、下から重い梃子で突き上げて造るもので、かなりの練度を必要とします。注ぐアルミ湯の量が少ないと、出来上がった製品は鋳型通りの形にならない。また湯量が多過ぎると、鋳型からはみ出したアルミ合金は四方に飛び散って、危険でもあり、それ以上に資源の無駄として厳しく注意されます。

 四、五人の少年が一組となって一台の鋳型機を担当しました。一人が下部鋳型の湯壺に耐熱加工した紙コップを填め込む。一人が電気炉からアルミ湯を汲んで注ぎ込むと、鋳型機の一端に控えている一人が間髪入れずに持ち上げてあった上部鋳型の留め金をはずして、鋳型を上下ぴったりと合わせ、皆が鋳型機の側から飛び離れる。そこで、向こう端に今まで重い梃子を担いで待機していた一人が、力一杯梃子を押し下げる。梃子の先端は跳ね上がって、下から下部鋳型の湯壺を突き上げ、注ぎ込まれていたアルミ湯を鋳型の隅々まで押し込み流し込む。

 私達は、時には溶けたアルミ合金の飛沫で火傷し、時には高圧の電気炉に感電して腰を抜かしながら、ノルマの達成に懸命に取り組んでいました。頭のてっぺんからつま先まで、汗と油に汚れながら、私達はそれでも、決して作業を苦痛とは思いませんでした。机の前に座り続けなければならない教室の勉強よりは、一日中体を動かす作業の方が面白く且つ楽しく、毎日生き生きとして学生生活を送っていたのです。 

 それでも、昼食後には、学生の本分を忘れないと言う意味か、担任の先生による一時間の授業が行われました。三年一組の担任は物理の教鞭を執っておられた梅本先生だったので、当然授業は物理でしたが、いつもは難解で至極退屈な「ベクトル」の講義でさえも、階段教室で受けるそれとは違って、いかにも新鮮に感じられたものです。

 しかし、私達の風体は、傍目には余程異様に映っていたものと見えます。

 一日、動員学徒の巡回慰問ということで、三、四人編成のバンドが来場し、アコーディオン、ギターを伴奏に、一時間ほど歌を歌ってくれました。終わりに、週番が「起立」と号令をかけたところ目を丸くし、皆の「有り難うございました」の合唱に、「日本人でしたか」とびっくり仰天して、それまでの少なからず尊大であった態度が一変しました。私達のあまりの薄汚れた有様に、てっきり中国人工員と思いこんでいたらしいのです。

 またある日、当時、関東軍南満補給廠所属部隊に勤務していた父が、何の用事か二、三人の部下の人達と、工場を訪れてきました。父は、はじめは私に気づかなかったらしく、自分を見つめている少年が我が子であるのを認めて、一瞬ぎょっとした表情になりました。日頃、我が家では絶対君主であり、暴君に近い父の思いがけぬ弱みをかいま見たような気がして、私には小気味よい印象でした。後に、「昭があんな格好で・・・」と母に語ったそうです。

 その日以後、口うるさい父の小言を聞くことがなくなりましたから、汗と油で真っ黒になっている己が息子の姿は、よほどのショックを彼に与えたに相違ありません。

 真昼の日照りの中、事務所と工場の間にある中庭に整列して、正午のラジオ放送を聞きました。雑音とひどいフェージングの中から、途切れ途切れに聞こえてくる言葉をつなぎ合わせて、日本の敗戦を知りました。敗戦の悔しさよりは、(もうこの工場に来ることもない、明日からは何を目標に・・・)といった喪失感と、(負けてしまったんだ)という虚脱感がない交ぜになって、ただ呆然と立ちつくしました。

 解散して昼食をとった後、倉庫の上棚に陣取った私達は、これから起こり得るべき事などを、色々と憶測を交えて話し合いながら、午後の作業開始時間になっても、誰も動こうとしませんでした。工場の係長が出てきて、作業に掛かるよう督促しましたが、誰も動こうとしません。神経質で、痩せ狐のように病的な感じのする係長が、
「仕事にかかれ!」
と金切り声を上げたのに対し、後ろの方から、
「負けたのに働く必要があるか。」
という声が届き、それに乗じて皆が口々に
「俺達は勝つために動員されたんだ。もう誰がやるか!」
「そうだ、そうだ。」
と抗議の声を上げはじめました。いきり立った彼は
「今言ったのは誰だ。出てこい!」
と怒鳴りました。一瞬、静かになったその中から、神山が、
「俺が言ったんだ。」
と、のっそり立ち上がったのです。

 神山は、二年秋の中学対抗戦の相撲の部で、上手捻りで相手を倒し、唯一の白星を稼いだ、体格の良い少年でした。

 思わぬ生徒からの反撃で逆上した係長は神山に掴みかかり、取っ組み合いとなりましたが、形勢はどう見ても神山が優勢でした。自分の旗色の悪いのがわかるのか、更に頭に血の上った彼は、傍らにあったスコップをとるや神山に殴りかかり、横に振ったスコップをたぐり寄せた神山の背中を傷つけてしまいました。血を見て半狂乱になった係長を、大人達がようやく取り鎮めた頃には、神山も休憩室に入って、傷の手当をして貰いながら、緊張感が切れたのか、流石に目頭を赤くしていました。畏敬の眼でその涙を眺めているうちに、(日本は負けたんだ。これから、こんな事が次々に起こってくるのだろう。)といった思いが胸一杯になって、涙が止まらなくなってしまいました。泣き始めると、先程の放送の意味が初めてはっきりとよみがえり、悔しさとも悲しさともわからぬ感情が溢れて、あとからあとから涙が吹き出してきます。其処此処で泣いている日本人達を、怪訝な目で眺めている中国人工員の姿が、涙目の片隅に映りました。

 三時近くになって、早めの終業、解散が決まりました。中国人達に襲われるかも知れないというので、市電の停留所までは、皆一緒に帰ることになりました。防空頭巾の入った雑嚢を右肩から下げ、ゲートルを巻き、木銃を肩に四列縦隊の隊伍を組みました。真夏の太陽はまだ高く、真上から容赦なく照りつけてきます。吹き出す汗に背中をびっしょり濡らし、不安に追われながら帰り道を急ぎました。

 夕刻になっても、町は静かでした。母がしきりに父のことを心配するので、父の部隊に行ってみることにしました。部隊事務所は、官舎から埠頭に向かって一キロメートルほど、大連埠頭第二桟橋出口の向かい側にある、港橋ビルにありました。何か大きな仕事をなし終わったときのような不思議な充足感、或いは、開放感があって、我ながら不謹慎なと思いながらも、少し浮き浮きした気分で、朝日広場から港橋に向かう大通りを下っていきました。終戦=支配国日本の敗戦、という現実がまだ実感出来ないのか、中国人達も家に潜んで様子を見ているらしくて、いつものような人通りもなく、通りはガランとした感じでした。

 部隊事務所に行ってみると、いつもは目に触れたことのない、小銃や拳銃が机の上に並べられています。暴徒に備えているのだそうです。その机の周囲だけが何か物々しく、今歩いてきた通りの静けさとの違和感が際だって、事務所内は異様な雰囲気でした。父が席を外した隙に、無事を母に知らせてくるからと部隊の自転車を借りました。 

 車の往来もなく人通りさえない大通りを、私は風を切って走りました。

 当時、自転車はお金持ちの乗り物でした。私の通った大連嶺前国民学校は、大連の学習院といわれたほど金持ちの子女が多かったのですが、それでも自転車のある家はクラスの半分もありませんでした。子供用の自転車を持っているのは、父親が幾久屋(大連の銀座通りとも言うべき浪速町に在った百貨店)の社長をしている岸田だけでした。しかも、彼は三台も持っていました。成長に応じて買い換えて貰ったのでしょう。五年生の夏休みに、私は彼のお古を借りて、自転車を習得しました。習い初めのヨロヨロ運転で、平和台と臥竜台との境にあった小川に落ちそうになった私は、敢然と自分だけ飛び込みました。自転車は無事岸に残りました。

 以後、自転車に乗る機会も少なく、時たま誰かの自転車に、いわゆる三角乗りをした記憶しかありません。それが今、私は大人の自転車にちゃんと乗っています。三角乗りではありません。足はようやくペダルに爪先が届くほどですが、それでも自転車に跨ってみる世界は、いつもとは違って見えました。しかも、暫く乗っていないにも拘わらず、我ながら上手に乗れるではありませんか。これなら川に飛び込む心配もない。私は家には帰らず、妙に静かな通りから通りを抜けて、颯爽と走りました。しかし、朝日広場を突き抜け、鏡が池を一周した頃には、流石に、嘘をついて、しかも部隊の公用自転車を持ち出した後ろめたさが、この爽快感を押しつぶして、急に不安が膨らんできました。朝日広場から港橋への広い道を一気に走りおりて、部隊に着いてみると、父や部隊の人達が玄関に並んで待っていました。彼等は、大連周辺の部隊から、不穏な状況報告を受け、帰りの遅い私を心配していたらしいのです。父は、私の至極満足げな顔を見て拍子抜けしたのか、往復びんたも覚悟していた私を一喝しただけでした。

 「日本の最も永い日」が暮れ、何年ぶりかで電灯から防空覆いをはずしました。部屋は眩しく明るく輝き、すべてのものが美しく見えました。

「ユネスコハノイ越日交流クラブ」
http://www.geocities.jp/unescohanoijp/




              堪え難きを堪え

                       福島幸三郎

                       (当時:タイ駐屯、陸軍中尉)

「親展電報です。すぐ来てください。」
 暗号班から電話がかかった。

 軍隊の電報はすべて暗号である。受信した暗号文を平文に翻訳したり、平文を暗号文に組み替えて発信するのは暗号兵の仕事であるが、機密事項や人事に関する件は親展電報による定めになっており、将校が処理することになっていた。そのころ私は通信隊長を仰せつかっていたので、それは私の役目であった。

 電報は短いものであった。12時から陛下の御放送があるから拝聴するようにとの、司令部からの達しである。しかし翻訳を終えて大隊長の部屋へ行ったときは12時を回っていた。早速ラジオをかけて聞いたが、雑音が多く聞き取りにくい。しかし言葉の端々から、それは戦争を終結するといった内容のものであることだけは分かった。

 副官も交えいろいろと話し合っているところへ、近くにいる気象隊長と運送隊長が駆けつけてきた。ともにビエンチャンに駐屯する分遣隊の長で、私と同年配の若い将校である。そこへ慰安所の女将も輪タクに乗ってとあたふたとやってきた。ここだけの話であるが、ビエンチャンのような小さい街にも一軒の慰安所があったのである。いずれも御放送を聞いて不安になり、大隊長に相談にきたのである。

 大隊長は、今後のことについては、いずれ指示があるはずだから、軽はずみのしないよう部下をよく掌握して、時機を待つようにとの趣旨のことを話しておられた。

 しばらくするとふたたび電報が入った。御放送の概要を念のため送ってきたのである。これで日本が負けたこと、しかも全面降伏したことが確認させられた。大隊長以下将校連中は改めて愕然とした。虚脱状態になった。目標としてきたものが忽然と無くなり、張りつめてきたものが急に失せていった。そして無念と悔しさと将来に対する不安。さまざまな感情が去来し、入り交じり交錯するばかりで、誰も的確な判断を下せるものはなかった。ただ、皆の心の奥底に、これで終わったんだという、ホッとした気持ちも芽生えていたことは否めない。

 夜になっても親展電報は続いた。昼間放送された終戦の詔書の全文が送られてきたのである。長文のため何段かに分かれて入ってきた。漢文調の荘重な文体であるうえ、詔勅独特の用語が多用されているから翻訳にも手間取った。終わったと思っていると、引きつづき今後の心構え、行動の指針などについて、司令部からの電報が続々入り、作業は深夜に及んだ。
  
 早速清書して大隊長に提出、明朝全隊員を集めて朗読、訓示されることになった。

 翌16日朝、大隊長は全将兵を集め、『戦争終結の詔書』を奉読するとともに、いたずらに軽挙妄動することなく、最後まで秩序ある行動をとるようにと訓示された。今後どのようなことが起こるか分からないが、詔書でも言われているとおり、『堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び』、揃って祖国に帰れる日を待とうではないかと訴えられた。

 こらえきれず嗚咽の声を漏らす兵もいた。こらえようともせず涙を拭っている下士官もいた。幾歳月、皇国の不敗を信じ、ひたすら滅私奉公、青春を捧げてきた者たちである。彼らの心中は察するに余りがあった。

 その晩は特に飲酒を許されたが、各隊でかなり悲憤慷慨の士が出たようである。兵隊は負けていない、負けたのは原子爆弾が無かったからだ、などと言って、口惜しがる者もいたとか。

 将校たちも虚ろな顔をして夕食に集まってきた。談笑しても気勢が上がらず、冗談を飛ばす者がいても心の底から笑う者はいなかった。その場の空気を察してか、ボーイとして使っていた地元の少年が「オサケタクサンノム、ジョートーネー」と言って皆を笑わせ、重苦しい空気も多少は和らいだ。

 しかし、戦後ベストセラーになった『菊と刀』にもあるとおり、日本人はいざとなると気持ちの切り替えが早い。将兵が心の落ち着きを取り戻すのに、さほどの時間はかからなかった。四、五日もすると部隊に笑いが戻ってきた。そして、懐かしの祖国に帰れるという希望が湧いてきた。

 もともと兵たちの最大の願望は、戦争が早く終わり、故郷に帰ることであった。一日も早く輝かしい成果を上げて戦争が終わり、晴れて故郷に凱旋する日を待ち望んでいた。しかし戦況が不利になる一方で、いつになったらその日が来るという当てもなく、半ばあきらめの心境になっていたところである。

 それが今、皮肉にも敗戦という事態を迎えて、急に実現性をおびてきた。強制労働に引っ張られるなどという風評が飛んでおり、一抹の不安を抱きながらも、半年か一年先には帰れるかも知れないという希望が生まれてきた。隊は一日一日と元気を取り戻した。広い飛行場で野球大会などしながら、時節の到来を待つことになった。

この文章は、福島さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「KZ-FUKUSHIMA'S WEBSITE」
http://members.goo.ne.jp/home/kz-fukushima/diary





               軍国少年の夏

                      明石善之助
                              (当時:中学校2年生)

 昭和二十年八月十五日正午、旧制中学の二年生だった私は、福岡市渡辺通りの角、丁度いま電気ビルが建っている場所にあった民家の庭先で玉音放送を聞いていた。

 あの年の四月、県立福岡中学校二年生になったばかりの私たちの学年は、五月早々、軍需工場へ動員された。私のクラスは白木原(現・大野城市)にあった飛行機工場に配置された。飛行機工場といっても板壁一枚の粗末な木造で、むしろ掘立て小屋に近かった。

 そんな工場で、私は自分の身体より大きな旋盤をどうにか回しながら、飛行機の部品の小さなネジを造っていた。工場のあった一帯は、今は住宅街になって、あの頃を偲ばせるものは何も残っていない。

 上級生たちも、一年ほど前から同じ工場で働いていたが、三年生は予科錬、四、五年生は、陸軍士官学校や海軍兵学校などを志願するのが当然で、高等学校や専門学校を受験するのは何となく肩身が狭いといった雰囲気だった。

 事実「勉強は戦争に勝てばいくらでも出来る。今は非常時である。国家存亡の危機にある現在、五体満足な者は全員、軍隊に行け」と揚言する先生もおられた。

 そんな空気の中で、私は陸軍幼年学校の受験を決めた。幼い時から叩き込まれた軍国主義教育のせいもあったが「どうせ兵隊に行かねばならないのなら、将校になったほうが得だ」という、幼い判断もあった。それに洒落た肩章のついた陸幼の制服も、確かに魅力的だった。

 陸軍幼年学校は、帝国陸軍のエリート将校への第一歩となるコースで、旧制中学一、二年生が志願できた。陸士、海兵と同様に、かなりの難関といわれていた。

 あの日は、熊本陸軍幼年学校の受験用書類を、H先生宅まで持参する事になっていた。おかげで工場への出勤は免除されていた。

 市電城南線の南薬院で下車し、細い道に入り、薬院本町(現・警固三丁目か桜坂一丁目あたり) のH先生宅の玄関先で、先生に書類を渡した。ヤレヤレ一安心と、帰りは少し歩く気になった。

 暑い日だった。舗装されていない城南線の電車通りは、真夏の強烈な直射日光の中で、白っぽく土埃が立っていた。
 汗だくになって渡辺通りまで来た時が、昼少し前だった。
  正午から重大放送があるから必ず聞くようにと、前日から新聞やラジオが盛んに報じていた。角の民家の庭先で近所の人たちらしい十数人が、ラジオを囲んでいた。私もその中に混じった。

 正午の時報の後、君が代が流れ、重々しい調子でアナウンスが始まり、びっくりした。何と天皇直々の放送らしい。天皇陛下は生き神様であった。天皇の顔を見ると目が潰れると、教えられていた。小学校時代、天皇皇后の御真影(写真)を祀った奉安殿は近寄りがたい聖域だった。

 玉音…神様の声とは一体どういうものなんだろう。私は緊張し、無意識のうちに直立不動の姿勢となった。

 しかし、初めて聴く天皇の声は少し甲高いが普通の人間の声と同じで、何となく期待はずれだった。神様の声を聴いても、大人たちが言っていたように耳が変になる事もなかった。ただ、やたら難しい言葉が続く上に雑音が多くて、サッパリ理解出来なかった。周囲の大人たちも戸惑った表情だった。

 消化不良のような、すっきりしない気分のまま家に帰りつくと、兄が「日本が負けたぞ」と言った。

 三歳上の兄は、二年近い前にやはり勤労動員で軍需工場に駆り出され、工場の寮生活をしていたが、不潔な環境や貧しい食糧事情のため身体を壊し、自宅療養を命じられて半年ほど前に帰宅し、痩せ細って終日布団の中にいた。しかし、あの食糧難の御時勢である。母は「何も滋養になる物を食べさせてやる事が出来ない」と嘆いていた。

 そんな兄と口喧嘩になった。
 「日本が負けるはずがない」
 「馬鹿か、お前は」
 横で母がおろおろしていた。

 三日後の十八日が、陸幼の体格検査の日だった。
母や兄は「戦争に負けたんだから、幼年学校の試験なんてあるはずがない」と言ったが、小学校時代から教えられるまま“神国日本、神州不滅”を信じていた私は、それを振り切って家を出た。市電と西鉄大牟田線を乗り継ぎ、試験場に指定されていた二日市(現・筑紫野市)の公会堂に行った。

 会場には誰もいなかった。入り口に「試験は都合により延期」という張り紙があった。私は呆然と立ち尽くしていた。

 以来六十年、私の意識の隅では、陸軍幼年学校の試験は未だに“延期”されたままである。

 兄は敗戦後の二年目の早春、回復しないまま亡くなった。十八歳であった。

   (平成十七年夏、かわら誌第14号・戦後60年企画特集号寄稿)


この文章は、明石さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「シニアライターズクラブ」
http://www.geocities.jp/hanegao/WritersClub/memberall.htm

      




    南京支那派遣軍総司令部女子軍属宿舎にて

                       加藤登美子 
                          (当時:支那派遣軍軍属、19歳)

昭和二十年八月初旬、今まで一度もなかった就寝休を経験して仕舞いました。マラリアの三日熱の発病です。四十度を越す猛烈な高熱に襲われ、全身がガタガタ震え出し、布団を何枚もかけても全身の気だるさと震えが止まりませんでした。

マラリアの特効治療薬の「キニーネ」の白い丸薬を飲むと翌日は平熱に戻り、時間が経つと再度高熱に襲われ、この繰り返しが二、三日続きやっと平熱が続く様になり、マラリアも退散してくれた様になりました。

そんな環境とはお構いなしに戦況は悪化の一途を辿り、等々運命の八月十五日を迎えて仕舞いました。勤務に就いた筈の友が帰って来ました。どうしてこんな時間に、まさか私のマラリアが伝染したかと、一瞬の不安が脳裏をかすめました。

そして友の言葉が、
「大変な事になった。正午に天皇陛下の玉音放送があるから、正午に全員総司令部に集合せよ。」
と、言う事でした。

其の理由は日本の敗戦でした。無条件降伏の様です。信じられない、ガーンと頭を一発叩かれた様でした。何故ならば中国大陸の前線は部分的な負け戦はありましたが、それも分隊、小隊単位の全滅若くは撤退を余儀なくされた事があちらこちらに発生した様ですが、武器弾薬を敵の手に渡す事なく、概ね敵を  圧迫して勝ち戦を続けていたと言う情報だけでした。

事実日本の本土の各都市は、米軍の空爆に合い、沖縄の最後の地上戦が終わり、南方軍の玉砕の悲報が相次ぎ、広島、長崎が新型爆弾の洗礼を受けた後でした。この様な差し迫った戦況など知る由もありません。

兎も角こんな処で寝ている場合ではなく仕度を整え総司令部に出務しました。誤報であって欲しいと祈りながら・・・。
午前十時頃衛兵所の門を通った時は着剣の立哨のみ。何時もの通りの状況で 緊迫した様子など微塵も感じられませんでした。主計事務室の中は何か落ち着かない雰囲気を総身に感じましたが、まだ百%信じている者はおりませんでした。

正午10分前、総司令官岡村大将以下私達軍属を含む全員が緊張した面持ちで総司令部前の広場に整列を終らせました。東支那海を渡って来るラジオの電波はノイズに埋もれてはっきりとは聞き取れませんでした。

初めて拝聴する大元帥陛下のお声は、
「朕」とか「国民」とか「忍び難きを忍び」と言うあたりは何とか拝聴出来ましたが、全体の意味は不明でした。

何たる事か負けた。等々負けた。でも私の知る限りでは中国大陸の前線では負けてはいない。多少の出入りはあっても八十%の前線は勝利している。何たる事か。敗者の遠吠えにも似た考えでした。各々事務室に戻り改めて敗戦の事実を噛み締めながら、放心状態で座っていました。直ぐにでも武装解除になるだろうと言う無条件降伏の真実でした。

「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ。」
戦陣訓の一節です。降伏して捕虜になると言う事は軍人として一番恥ずかしい事、私はこの様に教育されて来ました。

例え女子軍属と言えども、いざと言う時は自分の身の処し方は自分で行なわなければならない。そして出来ると信じていました。もう生きて日本に帰れないかも知れない。

ともかく事務室内の整理、身の回りの整理、例えどの様な事態になろうとも、
「立つ鳥跡を濁さず。」この事務室に敵が来ても笑われない様にと機密書類の 焼却から始まり、身の回りの私物の手紙、毎日書いていた修養録等を薔薇の花の咲いている庭に大きな穴を掘り、其処で焼却しました。人知れず流す涙が頬を濡らしていました。
 
もう一般中国市民には日本軍の権限は通用しません。長年に渡る軍隊の行動に反発して今こそと考える中国人が居ても可笑しくありません。宿舎と総司令部の間も決して安心とは言えない事になりました。

数日が過ぎ総司令部の中も整理がほぼ済んでいました。私達軍属も平日と変わらず出務していました。依然として内部の帯刀本分者は帯刀のまま、衛兵所は着剣の歩哨が勤務していました。

後日日本に帰還してから聞いた事ですが、八月十五日私達が終戦の勅語の放送を拝聴した直後、JOAKの海外向けの短波放送で海外の同胞向けに大屋さんと言う日本放送協会の職員が、
「どうか強く、逞しく生き続けて勇敢でいて頂きたい。」
と約一時間に渡り、私達同胞を励まして頂いた事を知りました。

そして総司令官岡村大将は、陸士時代からの中国研究の利を活かし「和平直後に於ける対支要綱」を自ら起草して、陸士の教官時代教え子であった支那空陸司令官可応欽にその要綱を提示、私達が捕虜の扱いを受ける事なく無事南京から引揚げ、上海に集結する事ができました。

総司令部からの引揚げ開始迄、二ヶ月程ありましたが南京市内は平穏無事で、両軍のトラブルもなく私達は宿舎と総司令部の間を往復して残務に就く事が 出来ました。

そして帰国の出来るのを指折り数えて待つ毎日となりました。八月十五日以降抱いていた悲壮な心も次第に薄れ、生きて祖国の土が踏める安堵感が生まれて来たのもこの頃でした。
     
「智毘女のホームページ」
http://www.geocities.jp/chibijyo888/





        新京の街に轟く大喚声

                        池田幸一
                         (当時:関東軍兵士)

 1945年8月15日、私の小隊は満州国皇帝が逃げ出して藻抜けの殻の宮内府を警備していましたが、もうその頃にはソ連軍がいっせいに国境を越え、白城子も抜かれたと伝わって騒然たる有様でした。 “どうも様子が変だから見て来い” と大隊長に街の偵察に出された私が、吉野町の街角で耳慣れない天皇の声を聞いたときから首都新京(現長春)は一変しました。

 路地という路地の奥から声にならないどよめきがおこり、やがて大きな喚声に爆竹が交じり、ドラの響きと人垣がいっせいに広場をめざしはじめました。手作りの晴天白日旗や鎌とハンマーの赤い旗が揺れて、殺気立った群集が動き始めたのです。冷たい汗が背筋を走ったのを今も覚えています。

 あぁ戦争は負けたか、もう日本人が吸える空気のひとかけらもない街を、投石と罵声を背に一目散に走り抜け、私は一路「国通」を目指しました。満州通信網の元締めから確かな情報を得たいがためと、あわよくば危険な宮内府を乗り換えて安全な場所へ潜り込みたい算段からでした。

 逃げ込んだ「国通」の庭で見たものは、うず高く積まれた書類の山を焼く赤々とした炎と、中天に吹き上げられた黒い煙でした。それぞれの部屋には仕官や職員たちが土足を机にあげたまま酒盛りをしていて、怒号したり放唱したり、中には抜き身の軍刀を振り回す姿もあって半狂乱の光景でした。

 “どこの隊かは知らんが一番乗りとは素早い奴、早く帰って手柄にせよ” と呉れたのが敗戦を知らす東京発信の電文でした。帰りに運良く馬車を拾い、ほうほうのていで帰隊しましたが、報告を聞いた大隊長は “絶対にマル秘だぞ、誰にも だぞ” と念を押しました。

 忽ち将校に非常呼集がかかり、本部では長々と会議が続いたようでした。遥か東方を伏し拝んで腹を切ろうとする者、玉砕を叫ぶ者、 “嘘だ、敵の謀略に乗るな” という者さまざまで、収拾がつかなかったとは後日の話ですが、そんな空気が漏れない筈はなく、とうとう私も班内で口を割られてしまいました。

 “そうか、やっぱりなぁ、ラジオがそう言っていたのか。それにしても脆かったのう、アメリカは・・・” と、ある兵長殿が言いました。忠勇無双の彼にとり神国日本は常に不敗であったのです。

 降伏したのは此方だと知ると、さすがに後は声もなく沈黙が続きましたが、真実は恐ろしい速さで全軍に伝わって行きました。シベリア行きの貨車に乗せられたのはその28日後のことでしたが、その間に関東軍司令部は敵将ワシレフスキー元帥に対して“・・・・右帰還までの間におきましては、極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います。” と ご丁寧にも使役をお願いしていたのであります。関東軍60万の将兵は、昨日までの「鬼畜米英」「八紘一宇」に代わる「詔承必謹」のスローガンのもと、国体護持と役務賠償のためにスターリンに引き渡されたのであります。

「老いたる蟷螂の言い分」
http://kamakiriikeda.hp.infoseek.co.jp/





      泣きもせず、すべて拍子抜けだった

                        和田喜太郎
                    (当時:木工会社従業員、15歳)

 国民学校高等科二年を卒業し、在学中勤労奉仕に行っていた弾薬箱製造の木工工場に就職した。ところが敗戦間際になって突然、都市軍需工場の旋盤など工作機械が所狭しと運び込まれ、工場は機械倉庫のようになってしまった。つまり機械の疎開なのだった。やむなく工場は閉鎖、従業員は在籍のまま新工場建設まで、それぞれ仕事を探すことになった。

 私は泊まり込みで隣町に働き口を見つけた。そして十五日、盆休暇をもらって自転車で我が家へ向かった。帰り着くと、近所の少年少女らが何やらがやがやと騒いでいる。聞けば「戦争終わったんで」「まさか、ほんと?」「さっき天皇陛下さんがラジオで放送しんさった」と「隣保」で一軒だけラジオのある家の娘がいう。

 第一報を聞いた時の皆の表情は、その場にいなかったから分からない。だが後に報道ニュースにあるような、「悔し涙に泣き崩れる」ような風景は想像もできなかった。晴れ晴れとしたふうでもなければ、沈痛な表情でもなく、内心はともかく大人たちも子どもたちも、それほど日常と変わりはなかった。

 ただ、後半月もすれば私と兄が同じ日に志願入隊することになっており、人も嫌がる軍隊へ志願などする「馬鹿兄弟よ」と、どこかでせせら笑われているのではないか、そんな思いに捕らわれ、やるせなかった。

 そうするうち「トラックに乗った兵隊が町にやってきた」と伝わった。「さては米軍上陸に備えたゲリラ戦か」など想像したのだが、満載していたのは武器ではなく、物資不足のなか容易にてに入らぬ食料や生活物資だった。兵隊たちはそれらを山分けし、トラックは運送店に売り飛ばしどこかえと散って行った。

 そういえば、小学校体育館に山積みされていた軍隊の疎開物資はどうなったのだろうか、軍属倉庫番を勤めていた近所のおじさんに、少しでも分け前があったのだろうか。間もなく内地勤務か、この町にも復員兵が帰ってきた。どこやらの誰はどんなものを持ち帰ったか、人々の噂は浅ましく食べ物のはなしばかりだった。

 「青閻魔」のあだ名の教頭は、米軍が上陸したら大人たちは竹槍で戦う。足手まとなる子どもは、全員鉄道を枕に自決玉砕するのだ、毎度ながら朝礼で訓話をたれていた。だが、教頭はその玉砕の手本を示してくれることもなかった。





          朝鮮の王族邸にて

                     伊豆利彦
                         (当時:朝鮮駐屯、陸軍二等兵

 1945年8月15日、私は朝鮮の王族、李健公の邸の庭で天皇の放送を聞いた。雑音が多く、あまりよく聞き取れなかった。兵隊の中にはいよいよアメリカが本土上陸し、重大決戦だというものもいた。私はその最初のところを聞いただけで、戦争はおわったのだと思った。

 空は晴れて暑い日だった。たぶん13日の夜だったと思うが、特別任務の分遣隊が編成され、李健公の邸に派遣されたのだった。そのとき、いまは記憶がはっきりしないが、たぶん銃をもたされたのだったろう。何一つ訓練を受けていない初年兵に警護の任務がはたせたかどうか心もとない。私が覚えているのは庭の葡萄がおいしかったことだけだ。

 正午から重大放送があるというので整列させられ、放送を聞いた。中隊長がなにを訓示したかも覚えはない。たぶん淡々と上からの命令にしたがって行動するというようなことを言ったのであろう。中隊長はかなり年輩の予備中尉で、ものわかりのいい冷静な人物だったと思う。召集されていやいや中隊長をつとめていたのではなかったか。

 待ちに待っていたその日だったが、これからどうなるという考えもなかった。ただいよいよおわったというほっとした気持だったのはたしかだと思う。当日のことは、台湾から座間の工廠に動員されて、そこから入隊してきた林という二等兵と話し合ったことのほかなにも覚えていない。

 林はしっかりした青年だった。私がまともに人間として話し合ったただ一人の兵隊だと思う。日本人の初年兵には誰一人戦友と呼ぶべきものはなかった。私は特別の事情で一人おくれて時期外れに入隊したのだったから、兵営生活についてはなにも知らなかった。風呂にはいることも知らず、汚れ放題に汚れて過ごした。手紙の出しかたも知らず、そのため私を送り出した母にもはがき一つだっさなかった。そのため、母は私が入隊せずに自殺したのではないかと心配していたという。こんな私に彼らは何一つ教えてくれなかった。なにを聞いても知らんぞという。いま思えばそれが彼らのイジメだったのだろう。このとき、なにかと親切にしてくれたのが林だった。そのほか朝鮮人が二人いて、彼らがいくらか親切にしてくれた。私は日本兵を憎み、彼ら3人が自分の戦友なのだと思った。私の中国人、朝鮮人に対する親愛感はこの兵隊時代の経験から始まっている。

 その夜、林は畠からキュウリを盗んできて私にくれ、自分たちはこれからどうなるのかと不安な思いを語った。私は君らは解放されて独立するのだろう。心配なのは敗戦国の僕ら日本人だと言った。これから日本がどうなるか、なにもわからなかった。しかし、私はほとんどなにも考えていなかった。なるようになる、ただ時間に流されてその時々を生きていた。

 その夜は月が美しかった。私は晴れ上がった星空を仰ぎ、なにか大きな歴史の真中にいる気分になった。大きな歴史の中を漂う舵をうしなった小舟という思いがあった。

 私たちが分遣隊として編成されたとき、二人の朝鮮人は除外されて残された。二人はそれを自分たちが朝鮮人だからかとはげしく抗議した。8月14日、李健公邸の警備ということで門前に立っていると、たくさんの朝鮮人の子供たちが集まってきてどうしたのかなどと聞いた。たぶん、朝鮮人仲間は日本の降伏を知っていて子供たちに様子を探らせていたのだろう。歴史は大きく動いていた。しかし、私はただ疲れを感ずるばかりで、何一つ、まともなことを考えずに、ぼんやりと時を過ごしたのだった。

 林はその後どうなったか。金や李はどうなったか。林は台湾に帰ったと思うが、しっかりした青年だったから、本土から逃げてきた国民党政府に対する叛乱にまきこまれたのではないかという気がしてならない。

この文章は、伊豆さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。

「日々通信 いまを生きる」
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/






    「神」と教えられていた天皇の声

                      村山正之

                             (当時:国民学校4年)

あの忌まわしい戦争は、我が家を滅茶苦茶にしてくれました。父の戦死(昭和13年)、そして名古屋空襲で焼け出され、残された母と子6人は、縁故疎開で叔父(農家)の家(鶏舎)に厄介になっていました。

雨の日は、部屋にはいたたまれない程の匂いでした。当時の農家は、収穫した米を一定割合で政府に強制的に納め(供出米)させられていて、農家でさえ食べるものが無かった時代でした。我が家の6人は、叔父の家にとって大きな負担になっていました。

あの「8月15日」は、今でも鮮明に覚えています。朝から叔父は興奮気味で、「天皇陛下さまのお言葉があるらしい。皆、集まれ!」 叔父叔母、祖父母、従兄弟、そして私達、総勢15人ぐらいがラジオの前に正座しました。

雑音の入り混じった甲高い天皇の声。これが「天皇の声」なのかと。言っていることが、さっぱり理解できなかった。天皇は「神」だと教えられていた私(10歳)には、天皇は別の日本語があるのかとも思っていました。

叔父の顔をみると、やはり同じだったらしく「判らん」と呟いていた。皆が天皇の言葉の批判をしていると、叔父は大声で「静かにせんか!」と怒鳴った。それは、天皇の批判は禁句だったからです。

こんな田舎に憲兵なぞ、来るはずもないと思ったのですが、誰かに漏れるかもしれない。その恐怖は、子供でも判っていました。そんな雰囲気で皆は静かになりました。

やがて部落の人がやって来て「日本は負けたらしいぞ!」と叫んでいました。叔父は真剣な眼差しで「えらいことになった。もう田圃も何もやる必要は無い」と言い出した。当時の農家は、今と違い全ては手作業のため、朝から晩まで田の草取りで、子供の私でさへ大きな働き手でした。

¨農作業を止める¨という叔父の言葉は、重く感じました。しかし、毎日の辛い農作業にこれで救われると、内心、半分の喜びがありました。

叔父は「アメリカが来たら、女はやられる。女は頭を丸坊主にせにゃあいかん」「ツルハシや鍬で戦うことになる」と真剣な顔。

こんな田舎に敵はやってくるだろうか。いや来るかもしれない。鉄砲の弾がお腹を貫通したら、どんな痛みなのか。死ぬことへの不安。何処へ逃げるか。叔父は「屋敷に糞尿を撒いたら、汚いから敵は入って来んかもしれん」と言い出した。

さすが皆は苦笑していたが、半分は真剣だった。今でこそ笑える話だが、それほど異常な雰囲気だった。

あの8月15日を境に、何もかもガラガラと日本は豹変しました。小学生であった私達は、学校でのビンタは常習でしたが、戦後、ビンタ常習の先生が担任になり、優しい先生に豹変していました。信じられないことでした。

それと同じように、戦後の天皇も大きく豹変しました。この豹変ぶりは、正しい変化だったのだろうか。どんな反省がなされたのか。いまだに私には、信じられるものが少ない。

重い犠牲を強いたあの戦争の、真の姿を正視してこそ、今の時代を語る資格があると、いつも信じています。

「日中戦争で戦死した一兵士の手紙」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~garan1153/index.html






             玉音放送を聞く

                         志村 建世
                               (当時:国民学校6年)

 昭和20年(1945)の8月12日は日曜日だった。この年の夏休みはどうだったかについては、記憶もなければ日記の記録もない。8月になっても壕作りに動員されているから、まとまった休みではなかったような気がする。12日も13日も、激しい空襲はなかった。とくに13日は、空襲警報は出て敵の小型機が上空を旋回しているのに、薄曇りの空に散発的な高射砲が上るだけという、間の抜けた空襲だった。

 14日にも空襲の記録はなく、大本営発表は鹿島灘東方で敵空母と巡洋艦各1隻を撃沈と伝えていた。同時に樺太にソ連軍が上陸し、朝鮮では50キロ、満州では200キロまでソ連軍が侵入したと発表している。そしてこの日午後、ラジオで「明日正午に重大な発表があります」との告知があった。ソ連への宣戦布告ではないかという予想もあったが、日本の降伏を予想する意見は、家の中でも言葉としては出なかった。そして15日の朝になると、正午からの放送は天皇の玉音によるものであるから必ず聞くようにとの注意が、何度も繰り返された。朝の新聞は配達されなかったが、その意味は誰にもわからなかった。空襲もなく、静かなままで昼になった。

 時報につづいて情報局総裁の紹介アナウンスがあり、君が代の演奏が流れた。そのあと、聞き慣れない声で抑揚の少しおかしな勅語の朗読が始まった。「ここに非常の措置をもって事態を収拾せんと欲し……かの共同宣言を受諾する旨通告せしめたり……」あたりで、ポツダム宣言を受諾して降伏する決定であることがわかった。家族はもちろん全員で聞いていたのだが、放送が終っても、とくに激しい感情は起こらず、言葉は少なかった。戦争が終ったことはわかったが、これからどうなるのかは、誰にも何もわからなかったのだ。ただ私としては「家が焼けないで残った」ということを強く意識して、それを口にも出したような気がする。しかし、喜んだりしたら悪い、というような気分があったことは確かだ。なにしろついさっきまで戦争継続を前提にすべてが動いていたのだから。

 やや落ち着いて物が考えられるようになったのは、午後の3時ごろになって、やっと当日の新聞が配達されてからである。家では新聞は5種類ぐらいとっていたから、みんなで順番に食い入るように読みふけった。紙面はみごとに終戦を伝え、敗戦の現実を知らせるものになっていた。御前会議の記事の見出しは「真白い手袋を御目に」と、決断した天皇の涙を伝えていた。父は広島の原爆の記事を読みながら「悪いものを作りやがって」とつぶやいた。そのとき私は初めて涙を流した。負けたことは、やはり口惜しかったのだ。

 その夜の食事がどんなものだったのか、私は覚えていない。叔父はいなくて、家族だけだったと思う。母はどんな気持ちだったのか、そのときもその後も、私は聞いてみたことはないのだが、子供たちのために、深い安心を感じていたのではないだろうか。

この文章は、志村さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。

「志村建世のブログ: 人間たちの記録」
http://pub.ne.jp/shimura/





          ポツダム宣言受諾通告を送信

                     高木三郎
                      (当時:河内送信所勤務、18歳

昭和20年8月9日、卑劣なソ連侵攻・残虐非道の米国による長崎原爆投下の最悪事態、原爆3発目は東京への情報思惑で、これ以上国民の犠牲は偲びないと、わが国政府は夕方近く急遽ポツダム宣言受諾に踏み切った。緊急を要し政府は外交ルート訓令前に短波放送を、定時(午後8時〜9時)日本放送協会海外放送の東京ラジオ(radio Tokyo)北米向けを「重大放送」としてポツダム宣言受諾通告が決められた。

午後6時すぎ日本放送協会海外放送監督の情報局係官は放送打合わせ線で、八俣送信所(茨城県)と河内送信所(大阪府)の夜勤者に、「重大放送に絶対支障の無いよう、他に絶対洩らさないよう・・・」を連絡した。送信所では海外放送用短波50KW送信機の故障に備え予備短波10KW送信機と中継線故障に備え短波受信機を運用して緊急時に備えた。

午後8時、「テーマ音楽の越後獅子管弦楽が流れ、続いて愛国行進曲が力強く演奏され・・・This is radio Tokyo in Japan・・・」で放送は始まり、通常の音楽は無しで米国に対してポツダム宣言受諾を通告された。9時国歌(君が代)の演奏で海外放送は終わった。と同時に米国VOA放送日本向けが突然停止した。約5分後再開され日本の流行歌や音楽を3時間流した。

10日0時、米国VOA放送は日本政府がポツダム宣言受諾を全世界に向け放送した。日本向けは興奮した声で、「日本のみなさま、平和がやって来ました。長かった戦争は終わりました。今晩東京ラジオで、日本政府がポツダム宣言受諾を通告しました。詳細については、スイスおよびスェーデン国を通して、連合国側と終戦の交渉は行われます。しかし、日本もよく戦いました・・・」と放送した。東京ラジオによるポツダム宣言受諾通告と、米国VOA放送の電波によって戦争終結を全世界に告げられた。

そして、10日未明外務省は東京〜ジュネーブ電信回線(多摩送信所:東京府)と大阪〜ストックホルム電信回線(依佐美送信所:愛知県)を経由、スイス・スェーデン駐在公館に訓令を発信、米国にはスイス国を、その他連合国にはスェーデン国を通して、ポツダム宣言受諾を正式に通告、終戦の交渉に入り8月15日終戦になった。





          偶感「昭和二十年八月十五日」

                         古林 肇道
                          (当時:陸軍特別甲種幹部候補生)

 あの日は暑かった。昭和20年8月15日。私は福島県西白河郡西郷村にいた。市町村合併が相次いだのに、63年経った今も、昔のままの地名が残っていると知って感慨一入である。
 村には、白河軍馬補充部跡に疎開した陸軍輜重兵学校の営舎があった。帝国陸軍最後の幹部候補生として学徒出陣した私たち「特別甲種幹部候補生」は、そこで本土決戦の日に備えていた。

 当時の模様を、同じ候補生だった上野一郎産能大学理事長が、その著『陸軍輜重兵学校の日々』で次のように伝えている。
 ――8月8日、ソ連が参戦し、ソ満国境を越えた。その翌日の9日、夜中に非常呼集がかけられ、完全武装で全員が集合した。
 「お前たちの命はもらった。ソ連が国境を越えた」と中隊長から聞かされた。
 広島、長崎への新型爆弾の投下、そしてソ連参戦以降は敗戦に向かってツルベ落としの秋の日だった。
 いよいよ敵軍の「本土上陸」、「一億玉砕」という時期だった――。

 「終戦の詔勅」のラジオ放送は、白河の山の中で整列して聴いた。電柱のような棒にくくり付けられたスピーカーから、天皇陛下の声が聞こえて来た。ラジオの状態が悪く、殆ど私には聞き取れなかった。前方の少佐が涙を流しているのを見て「これは負けた」と直感した。候補生の中にも泣き出す人があり、兵舎に戻って泣き続ける人もあった。
 第1区隊長のK大尉の様子がおかしいという噂が伝わったのは、翌日だった。上官のくせに候補生に自ら進んで敬礼する。行動は明らかに奇妙だった。間もなくK大尉は行方不明となり、一年後、付近の山林で拳銃自殺体となって発見された。

 本土決戦に備えての“タコツボ掘り”が、当時の私たちの主な作業日課だった。
 タコツボとは、その中に隠れて、頭上を通過しようとする敵戦車のカタビラを撃破する肉薄戦略用塹壕のことだ。すでに制空権を押さえられていた戦争末期の陸軍にとって、歩兵、工兵、砲兵などの兵科別機能などはとっくに失われ、全国に駐屯する軍兵は兵科を問わず、タコツボ掘りに専念していた。

 終戦で土方仕事から解放された私たちを待っていた任務は、“復員業務”だった。
 平たくいえば、進駐してくる占領軍に「自分が日本軍の将校を志願した男」であることの証拠の隠滅だったから、軍装姿の写真、名前を記入した操典(教科書)類など身の回り品一切を焼却した。御下賜の軍旗も焼いて、灰を側を流れる阿武隈川に流した。
 そんな身辺整理が4〜5日も続いただろうか。作業中、仲間の一人が不安そうに呟いた。
 「オレたちは、将校になることを志願したのだから、アメちゃんに玉を抜かれてしまうのだろうか」
 輜重兵学校入校以来8ヵ月、上官から叩き込まれた将校候補生の矜持などは、見事に掻き消えていた。


この文章は、古林さんのご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「−テラリスト宣言−小田原 花岳山月光院 城源寺」
http://www.jougenji.or.jp/index.htm





           私の八月十五日

                         井澤 壽治
                              (当時:中学2年生)

 一九四五年八月十五日。この日の空は抜けるように青くまぶしかった。なぜかいつもの警報のサイレンも鳴らず、蝉しぐれだけが真夏の暑さを伝えていた。人々は何日ぶりかに訪れた空襲のない静かな朝にとまどいをかくさなかった。

 「正午に重大な放送があります。玉音放送ですので襟を正してラジオを聞いて下さい」
 朝から再三再四、くり返される町会や隣組の役員さんたちの声だけが、重くのしかかるように耳に残った。

 当時、私は中学二年生で学徒動員中の身。たまたま、米軍の空襲で工場は壊滅、自宅待機の命を受け、阿倍野区昭和町に住み、警防団の手伝いなどをしていた。

 向かいの家に、陸軍特別幹部候補生として八月十六日、つまり次の日入隊が決まっている遊び仲間がいた。通称ヤッさんと呼ぶ優しい先輩だった。
 「空襲のカタキ、必ずとってくるさかい、君も、志願してついてくるのやでェ……」
 日頃の優しいお兄ちゃんの姿はどこへやら“天皇陛下万歳”の精神は、キッチリとしみこんでいた。

 この日、家族同様のヤッさんも、我が家で一緒にラジオを聴くことになった。時代物のラジオの調子が悪いのか、肝心な所が聞きとれない。
 「ピービービー、ガァーザァーガー、耐え難きを耐え、忍び…ピーザッ‥‥」

 それでもなんとか、敗戦の現実だけは分かったようだ。ヤッさんはと見れば二つ折りになって泣いている。
 「なんで‥‥、負けたんや」
 後は言葉にならない。
 なんとも表現しようのない重苦しい静けさが部屋中を支配している。
 ヤッさんは、黙したまま下駄をつっかけ小走りに帰ったようだ。足音だけが空しく残った。

 母は、ポツリとひと言、
 「もう空襲はないねんで……」
 「そや、電気つけてもかめへん、灯火管制せんでも怒られへん……」
 「アメリカはん、いつくるねんやろ」

 誰が喋舌ったか覚えがない。とにかく、この日、何を考え、何をしていたのか、定かな記憶がない。神さん、なにかしてくれはんねんやろか、神国日本はどこへいくねんやろ?なんて考えていたような気もするが、ただ、戦さに負けた恐怖感が全く無かったのは、現在考えても不思議だ。

 翌日入隊したヤッさんは、階級章のない軍服姿で、すっきりした顔で帰ってきた。


この文章は、かみがた活性化研究会のご厚意により次のサイトから転載させていただきました。

「かみがた活性化研究会」
http://www.valky.com/kamigata/index.html





         8月15日は大漁だった!

                         廣田 年亮

                                  (当時:国民学校3年)

 当時の神恵内村の人口は3,000人と教えられたが,ラジオは村役場と郵便局に置かれているのを含めて数台しかなかった。だから村人のほとんどは,岩内から昼頃運ばれてくる新聞を読むまで「新型爆弾」のことを知らなかったはずだ。

 『北海道新聞』が広島の原爆をどのように扱っていたかは記憶していない。しかし相当大勢の村人が父のところにやってきたことは覚えている。

 その頃の神恵内村としては,明治政府の高級官僚の息子で神戸商業を卒業し,大阪で貿易会社の重役になった父は大変なインテリに思えたようだ。朔郎さんなら教えてくれると期待したのだろう。

 もちろん父が説明できるわけがない。「わからん」で通していた。だが村の人たちはこれで敗戦が決まったと感じたようだった。大阪などの都会との大きな違いだと思ったのは,駐在の警察官も一緒になって「これで戦争は終わりだ」とおおっぴらに話していたことである。

 ソ連の参戦はもっと早くわかったと言われている。村の沖合に軍艦が並び,誰かが「ソ連の軍艦だ」と叫んだそうだ。真偽のほどは知らない。

 そして8月15日,昼に大事な放送があるのでラジオを聞かせてやってくれと役場から言ってきた。実はその日,父が小さいときから秘密にしてきたアワビの漁場を教えてくれることになっていたのだが,それは大事な放送が終わってからということになった。

 家の前の道路一杯に人々が集まった。しかし電波が弱く,少し離れている人には何も聞こえない。その上,詔勅の日本語自体がたいていの村人たちには難しすぎた。父に説明を求めた。父はかいつまんで説明し,「とにかく戦争は終わったということや」と締めくくった。60年に近い父との生活でこの時ほど明るい父の表情はあまり記憶がない。

 さらに説明を求めたり,泣き叫んだりしている人々を振り向きもせず,父と私は魚籠(ビク)とやす(魚介類を突き刺す漁具)を手に秘密の入り江に向かった。エゾアワビは7〜8センチあれば大物とされるが,この日は15センチぐらいのが獲れた。

 艦砲射撃で破壊された神恵内国民学校の跡を父と見に行ったのが8月15日より前だったかどうかは覚えていない。学校があった場所は港の北側、海から見て左側にある小山の上である。

 港と集落は左右から突き出している岬の陰に隠れている。だから艦砲射撃でねらえる建物としては小山の頂上にある学校しかなかったと想像できる。そのため学校だけが砲撃を受け,集落は機銃掃射を浴びるだけで済んだのかもしれない。

 攻撃の際に村の人々が避難した場所へも連れて行かれた。集落を包み込むような形の山並みの裏側にある谷間だった。かなり大きな樹木が生い茂っているから海からも上空からも人々は見えない。そのおかげか,人的被害はなかったらしい。

 それにしても,スルメイカとカレイを捕って細々と暮らしているだけの小さな漁村を何のために攻撃したのか。軍需工場があるわけでもなければ,軍の艦船が停泊するような港でもない。攻撃する理由が見当たらない。

 大阪ではもちろん,偵察機しか飛んでこない金沢でさえも一応灯火管制が行われていて,電灯の笠に黒い布を巻いていた。しかし艦砲射撃や機銃掃射の実害を受けている岩内や神恵内ではどの家でも電灯に布を巻いたりしていなかったのは,いま思うと面白い。

 例の「スパイ密告奨励」のポスターも見かけなかった。駐在所の中には掲示されていたかもしれないが,電柱などには貼ってなかった。肝心の警察官がヒロシマのニュースに接して「戦争は負けだ」と口に出して言うこの村では,そのようなポスターは意味をなさなかったからだろう。

 この村にとって,戦争とは何人かの男たちが兵役に駆り出されただけのことで,艦砲射撃と機銃掃射が台風のように1回襲ってきたが,それ以上の出来事ではなかったようだ。

 だが,8月15日は旧盆なのに盆踊りはやっていなかった。





              終戦の日

                       荒武千恵子

                              (当時:高等女学校3年)

 その日は朝から快晴だった。

 陛下の玉音放送が午後にあるから、必ず国民全員がラジオで聞くようにとのお達しが隣組の組長さんから言い渡された。

 当時私たちは保土ヶ谷の伯母たちが焼け残った二軒長屋の一軒(確か、玄関が2畳で、6畳と4畳半と小さな台所にお便所)を借りたから来ないかと呼んでくれたので、そこに間借りしていた。そこへ、また、隣の二軒長屋の一軒が空いたので、今度は焼け出されたときに一緒に逃げた母方の祖父と、伯母と従姉の3人が引越してきていたのだが、3軒とも焼け出されで、ラジオすらなかった。

 そこで大家さんでもある隣組の組長さんにお願いして、そのお宅の小さな窓の下の道で聞かせてもらうことになった。 確か午後1時だったような気がするが、定かではない。

 そのお宅のラジオはかなり古いものだったらしくキーキー、ガーガーのおまけつきで、陛下の玉音は確かに聞こえたのだが、ぼそぼそとおっしゃっておられるのだか、全く意味が分からなかった。

 そこにいた誰もが、戦争が終わるということは全く予期してなかったので、その3家族の誰かが、 "どうせ、いっそう奮励努力せよということではないか”と言いだしたので、 ”それしかないわね。”と、みんなが同意して家に帰ってきたのである。

 暫くして弟が帰ってきたが、どうも様子がいつもと違うので、どうしたのかと聞くと、弟が怒ったような口調で、 ”玉音放送を聞かなかったのか?”と怒鳴った。

 ラジオがキーキー言っているので、何のことか分からなかったというと、 ”日本は負けたんだよ。”と、悔し涙にくれている。そこで私達は始めて戦争に負けたという事実を知ったのである。

 その晩、敵の偵察機が頭の上を旋廻していった。

 私達は久しぶりに電灯にかぶせていた黒い布を取り払った。

 何か、むなしいような、それでいて、もう空襲の心配はなくなったという安堵感と、そして、私は特に憲兵達に動員先を休んでいるということで、もうこの先、恐ろしい目に合わされないですむという、ほっとした気持ちと、そして、今後敗戦国の国民として、どんな恐ろしいことが待っているのかという不安感とが綯い交ぜになって,なんともいえない夜を過ごしたのであった。

この文章は、荒武さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。

「80ばあちゃん