朝鮮の王族邸にて
伊豆利彦
(当時:朝鮮駐屯、陸軍二等兵)
1945年8月15日、私は朝鮮の王族、李健公の邸の庭で天皇の放送を聞いた。雑音が多く、あまりよく聞き取れなかった。兵隊の中にはいよいよアメリカが本土上陸し、重大決戦だというものもいた。私はその最初のところを聞いただけで、戦争はおわったのだと思った。
空は晴れて暑い日だった。たぶん13日の夜だったと思うが、特別任務の分遣隊が編成され、李健公の邸に派遣されたのだった。そのとき、いまは記憶がはっきりしないが、たぶん銃をもたされたのだったろう。何一つ訓練を受けていない初年兵に警護の任務がはたせたかどうか心もとない。私が覚えているのは庭の葡萄がおいしかったことだけだ。
正午から重大放送があるというので整列させられ、放送を聞いた。中隊長がなにを訓示したかも覚えはない。たぶん淡々と上からの命令にしたがって行動するというようなことを言ったのであろう。中隊長はかなり年輩の予備中尉で、ものわかりのいい冷静な人物だったと思う。召集されていやいや中隊長をつとめていたのではなかったか。
待ちに待っていたその日だったが、これからどうなるという考えもなかった。ただいよいよおわったというほっとした気持だったのはたしかだと思う。当日のことは、台湾から座間の工廠に動員されて、そこから入隊してきた林という二等兵と話し合ったことのほかなにも覚えていない。
林はしっかりした青年だった。私がまともに人間として話し合ったただ一人の兵隊だと思う。日本人の初年兵には誰一人戦友と呼ぶべきものはなかった。私は特別の事情で一人おくれて時期外れに入隊したのだったから、兵営生活についてはなにも知らなかった。風呂にはいることも知らず、汚れ放題に汚れて過ごした。手紙の出しかたも知らず、そのため私を送り出した母にもはがき一つだっさなかった。そのため、母は私が入隊せずに自殺したのではないかと心配していたという。こんな私に彼らは何一つ教えてくれなかった。なにを聞いても知らんぞという。いま思えばそれが彼らのイジメだったのだろう。このとき、なにかと親切にしてくれたのが林だった。そのほか朝鮮人が二人いて、彼らがいくらか親切にしてくれた。私は日本兵を憎み、彼ら3人が自分の戦友なのだと思った。私の中国人、朝鮮人に対する親愛感はこの兵隊時代の経験から始まっている。
その夜、林は畠からキュウリを盗んできて私にくれ、自分たちはこれからどうなるのかと不安な思いを語った。私は君らは解放されて独立するのだろう。心配なのは敗戦国の僕ら日本人だと言った。これから日本がどうなるか、なにもわからなかった。しかし、私はほとんどなにも考えていなかった。なるようになる、ただ時間に流されてその時々を生きていた。
その夜は月が美しかった。私は晴れ上がった星空を仰ぎ、なにか大きな歴史の真中にいる気分になった。大きな歴史の中を漂う舵をうしなった小舟という思いがあった。
私たちが分遣隊として編成されたとき、二人の朝鮮人は除外されて残された。二人はそれを自分たちが朝鮮人だからかとはげしく抗議した。8月14日、李健公邸の警備ということで門前に立っていると、たくさんの朝鮮人の子供たちが集まってきてどうしたのかなどと聞いた。たぶん、朝鮮人仲間は日本の降伏を知っていて子供たちに様子を探らせていたのだろう。歴史は大きく動いていた。しかし、私はただ疲れを感ずるばかりで、何一つ、まともなことを考えずに、ぼんやりと時を過ごしたのだった。
林はその後どうなったか。金や李はどうなったか。林は台湾に帰ったと思うが、しっかりした青年だったから、本土から逃げてきた国民党政府に対する叛乱にまきこまれたのではないかという気がしてならない。
この文章は、伊豆さんのご厚意により次のブログから転載させていただきました。
「日々通信 いまを生きる」
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